第7話
指先が触れた瞬間、黒い壁は氷のように冷たかった。
カイは息を詰めてモップの穂先を壁の表面に押し当てた。いつものように上から下へ一度だけゆっくりと拭き下ろす。
手のひらほどの幅だけ、黒い層がはがれ落ちた。
けれどその奥にはまだ同じ黒が分厚く詰まっている。
「……一枚ずつですね」
「一枚ずつって、まさか全部ですか」
「全部です。ほかに通る道がありませんので」
カイは足を開いて腰を落とし、本格的に構えた。
拭いてははがし、はがしてはまた拭くという単純な作業をひたすら同じ速さで繰り返していく。手首の角度も力の入れ方も四年間毎日続けてきたものと何ひとつ変わらない。
違うのは汚れの厚さだけだった。
セラはカイの背後で剣を構えて通路の左右に目を配っていた。
「カイさん、何か手伝えることはありますか」
「後ろを見ていてもらえると助かります。拭いている間は振り返れないので」
「わかりました。任せてください」
壁に開いた穴は少しずつ奥へ延びていった。
後ろからはときおり小さな物音が聞こえたが、魔物が姿を見せることはなかった。セラはそのたびに剣の柄を握り直して、カイの背中を守るように立ち続けた。
一歩ぶん掘り進むたびに右手の甲の紋様が熱くなり、拭き取った黒いものがモップの毛先へと吸い込まれていく。
途中で一度だけ、カイは手を止めた。
体の芯が、ほんの少し冷えたような気がしたのだ。風邪のひき始めのような、言葉にしにくい重さだった。
「カイさん?」
「大丈夫です。少し肩が凝っただけです」
「肩凝りで済むんですか、それ」
「帰ったら湿布を貼ります」
気のせいだろうと首を振って、カイはまたモップを動かし始めた。
どれくらい時間が経っただろうか。懐中時計を見る余裕もないまま、カイは黙々と腕を動かし続けた。
これほどの瘴気が一晩で溜まるはずがないと頭の片隅で思ったが、今は考えている暇はなかった。
十歩ほど進んだところでついに穂先が向こう側へ突き抜けた。
向こう側には天井の高い広間が広がっていて、開いた穴から湿った空気と一緒に人の声が流れ込んでくる。
「来るぞ、構えろ!」
「無理だ、もう腕が上がらねえ!」
セラがはっと顔を上げた。
「リックさんたちの声です!」
カイは残りの壁を大きく二度拭き払って人が通れるだけの幅を一気に開いた。二人は顔を見合わせ、黒い壁の向こうへ飛び込んだ。
◇
もう駄目だと思った。
リックは折れた剣を構えたまま、目の前にそびえる巨体を見上げていた。
採掘場はもう目と鼻の先だった。逃げ道を塞いだ黒い壁を何度斬りつけても、剣は手応えもなく靄の中を素通りするだけだった。
最初はただのオークだと思ったのだ。第八層ならたまに出る魔物で、三人がかりなら倒せない相手ではない。
ところが斬りつけた傷口から黒い靄が噴き出すたびに、そいつの体はひと回りずつ膨れ上がっていった。
緑色だった肌はどす黒く変わり、全身に黒い血管のような筋が浮かんでいる。背丈は今や天井に届きそうなほどで、オークというよりはオーガと呼んだほうがしっくりくる化け物だった。
その手には天井から引きちぎった鍾乳石が棍棒のように握られている。
赤く燃える目がこちらを見下ろした。鼻をつく腐臭が広間じゅうに満ちていて、息をするたびに喉の奥がひりつく。
盾役の仲間はとうに盾を砕かれ、魔法使いの仲間は魔力を使い果たして膝をついている。立っているのはもうリック一人だった。
仲間を置いて逃げるという考えは、不思議と一度も浮かばなかった。
化け物が鍾乳石を振り上げる。
そのとき、背後から聞き覚えのある声がした。
「リックさん、そこから右に避けてください。床が濡れていますので」
振り返ったリックの目に映ったのは、モップを担いだ灰色の作業着の青年だった。
今朝第三層で死骸を拾っていた男だ。
清掃員なんて迷宮の掃除しかできない連中だと思っていた。そのゴミ拾いが、自分たちが一日かけても破れなかったあの壁を抜けてきたというのか。
「なんでゴミ拾いがこんなとこに……」
言い終わる前に、頭上で風を切る音がした。
リックは反射的に右へ転がった。たった今まで立っていた場所に鍾乳石が叩きつけられ、石畳が粉々に砕け散る。
青年の言葉がなければ、今ごろ頭ごと潰されていた。
「お、おい……」
「お怪我はありませんか。そこは先ほど拭いておきましたので、滑りません」
意味がわからない。
リックはただ呆然と、場違いなほど落ち着いた清掃員の顔を見上げていた。
◇
「下がってください!」
セラが鞘のままの剣を構えて前に出た。
化け物の視線が、リックからセラへと移る。
カイはその隙に、倒れている二人の冒険者のもとへ駆け寄った。盾役の男は腕を押さえてうめいていたが、命に別状はなさそうだった。
魔法使いの男も顔は真っ青だが、意識ははっきりしている。
カイは腰の除去剤を盾役の男の腕にかけた。傷口ににじんでいた黒いものが泡になって消えていく。
「立てますか。リックさんと一緒に、あの穴から外へ出てください」
「あ、あんた清掃員だろ。あいつをどうする気だ」
「片づけます」
三人は穴の手前まで下がったものの、誰ひとりそこから先へ逃げようとはしなかった。
そのとき背後で鈍い衝撃音が響いた。
振り返ると、セラが鍾乳石の一撃を剣の鞘で受け止めていた。両足が石畳を削りながら後ろへ押し込まれていく。
「重……っ!」
セラは歯を食いしばり、渾身の力で棍棒を跳ね上げた。
その剣さばきは素人目にも美しかった。鞘のままでも足の運びに迷いがなく、化け物の大振りを紙一重でかわしては的確に急所を打っていく。
二度三度と鞘が脇腹を捉え、そのたびに鈍い音が響いた。
そしてついに懐へ飛び込み、鞘の先で化け物のみぞおちを突く。
昼間のゴブリンなら一撃で倒れていたはずの、見事な突きだった。
けれど化け物は、わずかによろめいただけだった。
黒い筋の浮いた腕がうなりを上げて薙ぎ払われる。
鞘で受けたセラの体が、木の葉のように宙を舞った。
「アルフォードさん!」
セラは壁に叩きつけられ、そのまま床に崩れ落ちた。剣が手から離れ、からからと石畳を転がっていく。
鞘に収まったままの剣は、壁際でようやく止まった。
化け物が、ゆっくりとセラのほうへ向き直る。倒れた獲物から片づけようとでもいうように、鍾乳石を引きずる音がじわじわと近づいていった。
カイはモップを握りしめた。
右手の甲の紋様が、これまでにないほど熱く燃えている。
化け物の全身から立ちのぼる黒い靄が、カイの目にははっきりと見えていた。あれはあの壁と同じものだ。
誰かが撒き散らし、誰も片づけなかった汚れだ。
怖くないと言えば嘘になる。けれど汚れを前にして背を向けたことは、この四年間で一度もなかった。
リックが後ろで何か叫んでいたが、その声はもうカイの耳には届いていなかった。
カイは一歩前に出た。
化け物の赤い目が、初めてカイを捉える。
「ここから先は、僕がやります」
灰色の作業着の清掃員は、モップを中段に構えて化け物の前に立ちはだかった。




