第6話
冒険者ギルドの受付には、夜だというのにまだ明かりが灯っていた。
カイとセラが事情を尋ねると、疲れた顔の受付嬢は申し訳なさそうに首を振った。
「救助隊は明日の朝に出す予定です。今夜はどうしても人が集まらなくて」
「上層の見回りに人手を取られているんですか」
「ええ。このところ浅い階層でも魔物が凶暴になっていて、腕の立つ方はみんなそちらに回っているんです」
受付嬢の視線が、壁に貼られた依頼書の束へ向けられる。どれも上層の魔物退治や護衛の依頼で、普段なら考えられないほどの数だった。
ギルドを出ると、夜の大通りは昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
困っている人を見捨てないのがアルフォード家の家訓なのだと、酒場でセラが話していたのをカイは思い出した。王都を出てからの数か月も、彼女はその言葉だけを頼りに一人でやってきたのだろう。
セラが立ち止まり、迷宮の方角をじっと見つめる。
「わたし、行ってきます」
「アルフォードさん一人でですか」
「わたしは冒険者です。困っている人がいるなら放っておけません」
そう言い切った声は少しも揺れていなかったが、腰の剣を握る指先は白くなっていた。
半分しか抜けない剣で、夜の第八層へ一人で下りる。それがどれほど無謀なことか、彼女自身がいちばんよくわかっているのだろう。
カイは懐中時計を取り出した。針は八時を少し過ぎている。
「僕の勤務時間は、とっくに終わっています」
「わかってます。カイさんに迷惑はかけません」
「ですが」
カイは時計を懐に戻し、迷宮の入口のほうへ目を向けた。
今朝のリックたちは第三層を通って下りていったはずだ。あのとき蹴飛ばされた死骸の瘴気は、カイがきれいに拭き取った。
けれど第五層のあの渦のように、もっと下でも何かが起きているのだとしたら。
それを確かめないまま眠れるほど、カイは器用ではなかった。
「道具を取りに行きましょう。詰め所の倉庫の鍵は僕が持っています」
「え……来てくれるんですか」
「来るというか、少し歩くだけです」
◇
夜の詰め所は真っ暗だった。
倉庫からモップとバケツと除去剤の瓶を運び出していると、奥のソファで毛布の塊がもぞりと動いた。
「んー……カイ君? こんな時間に何してんの」
「少し出かけてきます」
「ふうん。いってらっしゃい」
ミミはそれだけ言うと、また寝息を立て始めた。
セラが小声で「先輩、ここに住んでるんですか」と尋ねたが、カイにもその答えはわからなかった。詰め所に泊まり込んでいるのか単に帰るのが面倒なだけなのか、四年一緒に働いていても先輩については知らないことのほうが多いのだ。
迷宮の入口に立つ夜番の衛兵は、二人を見て怪訝な顔をした。けれどカイの作業着と担いだモップを見ると、すぐに「清掃か。ご苦労さん」と通してくれた。
夜の迷宮は、昼とはまるで別の場所だった。
壁に埋め込まれた光苔の明かりだけが通路をぼんやりと照らし、足音がやけに大きく響く。第五層までは昼間に下りたばかりの道なので迷うことはなかったが、それでもセラは何度も後ろを振り返っていた。
「カイさん。これって、つまり残業ですよね」
「違います」
カイはきっぱりと首を振った。
「これは残業ではなく散歩です。勤務時間外に、たまたま迷宮を歩いているだけです」
「散歩で第八層に行く人はいません」
「では僕が最初の一人ですね。散歩なら日報も書かなくて済みますし」
「そういう問題ですか」
セラは何か言い返そうとして口を開いたが、結局小さく吹き出しただけだった。張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜けたように見えた。
第六層に入ると、空気がはっきりと重くなった。
通路の隅に溜まる瘴気が、昼間の第五層と同じくらい濃い。カイは歩きながらモップを動かし、目についた靄を片っ端から拭き取っていった。
「全部掃除しながら行くんですか」
「帰り道で魔物に襲われたら困りますから。それに、汚れたまま通り過ぎるのは落ち着かないので」
途中で一度、目を赤く光らせた大蝙蝠の群れが天井から降ってきた。セラが鞘のままの剣で叩き落とし、カイが足元の瘴気を拭き取ると、蝙蝠たちはすぐに我に返って闇の奥へ逃げていった。
「昼間より慣れてきました」
息を整えながらセラが言う。鞘のまま戦うことにも、後ろでカイが掃除をしていることにも、という意味らしかった。
第七層に下りると、瘴気は第五層で見たのと同じように一つの方向へ筋を描いて流れていた。その先にあるのは第八層へ続く階段だった。
筋をたどって進む途中で、セラが足元から何かを拾い上げた。
折りたたまれた羊皮紙の地図だった。端が破れ、泥にまみれている。
広げてみると、第八層の通路に赤いインクで印がつけられていた。
「これ、リックさんたちのものでしょうか」
「たぶんそうです。印のところが目的地だったんでしょう」
地図を落としたことにも気づかないほど、急いで下りていったのか。それとも何かから逃げていたのか。
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく足を速めた。
◇
暗闇の中で、リックは折れた剣を握りしめていた。
背中を預けた岩壁は冷たく、左腕の傷口からはまだ血がにじんでいる。すぐ隣では仲間の二人がうずくまり、荒い息をついていた。
「ごめんリック。俺がこんな依頼を持ってこなけりゃ」
「謝んな。決めたのは俺だ」
強がってはみたものの、声が裏返りそうになるのを止められなかった。
「くそ……なんでこんなことに」
第八層の奥にある魔石の採掘場を目指していたはずだった。最近は上層の魔物が増えていて、魔石の買い取り値も上がっている。
うまくいけば一晩でひと月分は稼げるはずだったのだ。俺たちはゴミ拾いとは違って命を張って稼ぐ冒険者なのだと、仲間に胸を張ったのは今朝のことだった。
ところが採掘場の手前で、通路の後ろが真っ黒な靄に塞がれた。
前に進めば、あいつがいる。
暗がりの向こうから、地面を揺らすような足音がゆっくりと近づいてくる。岩を引きずるような低いうなり声が、一歩ごとに大きくなっていった。
リックは歯を食いしばった。
ゴミ拾いと笑った清掃員の顔が、なぜか一瞬だけ頭をよぎった。
◇
第八層への階段を下りきったところで、カイは立ち止まった。
光苔の明かりが届かない。
いや、届かないのではなかった。通路の先が、天井から床まで黒い何かでびっしりと埋め尽くされていたのだ。
それは靄と呼ぶにはあまりにも濃く、まるで墨を流し込んで固めた壁のように見えた。第五層の渦とは比べものにならない濃さだった。
表面がゆっくりと脈打ち、冷たい息のような風がそこから吹きつけてくる。
「これ……瘴気、なんですか」
セラの声が震えていた。
カイは腰に下げた除去剤の瓶を確かめた。手持ちの量では到底足りそうにない。
カイはセラの問いには答えないまま、黒い壁へそっと手を伸ばした。
指先が触れる寸前、右手の甲の紋様が焼けるように熱くなった。
壁の向こうから、何か巨大なものの咆哮がかすかに響いてきた。




