第5話
詰め所に戻ったのは四時五十分だった。
カイが黒いガラスの破片を布に包んで差し出すと、グラムは老眼鏡をかけてそれを受け取った。窓から差し込む夕日にかざして内側にこびりついた黒い液体をじっと見つめる。
細い糸のような瘴気が、まだ破片からゆらゆらと立ちのぼっていた。
「第五層の、いちばん大きな瘴気溜まりの底にありました」
「どれくらいの大きさだった」
「広間の真ん中で、井戸くらいの渦になっていました。瘴気はそこから通路へ川のように流れ出していたと思います」
グラムの眉間の皺が、いつもよりいっそう深くなった。
ゴブリンの目が赤く光っていたことも伝えると、グラムは黙って小さくうなずいただけだった。
隣に立つセラが不安そうにカイの袖を引く。迷宮のことをよく知らない彼女にも、ギルド長の顔色がただごとでないのは伝わったらしい。
「このことは誰にも話すな。冒険者ギルドにもだ」
「わかりました」
「アルフォード、お前もだぞ」
「は、はい」
グラムは破片を布で包み直し、机の引き出しにしまって鍵をかけた。
それきり何も言わなくなったので、カイは日報を書いて提出した。壁の時計がちょうど五時を指す。
「では、お先に失礼します」
「……お前は本当にぶれないな」
背中にかけられた声は、呆れているようでもあり、どこか安心しているようでもあった。
◇
ギルド長室に一人残ったグラムは、引き出しの鍵をしばらく見つめていた。
瘴気は迷宮が勝手に生み出すものだ。誰かが小瓶に詰めて持ち込むものではない。
もしそんなことをしている者がいるとすれば、その目的は一つしか考えられなかった。
グラムは老眼鏡を外し、皺だらけの指で目頭を押さえた。
窓の外では、迷宮の入口が夕日を浴びて黒々と口を開けている。
十一年前のあの日も、空はこんなふうに赤かった。
◇
カイの家は東区の外れにある。
詰め所からまっすぐ帰るなら大通りを抜けたほうが早いのだが、カイはいつも少し遠回りをして東区の真ん中を通ることにしていた。
このあたりの家々はどれも壁の色が新しい。焦げ跡を塗り直したところもよく見ればまだあちこちに残っている。
十一年前、迷宮からあふれ出した魔物がこの一帯を飲み込んだ。家も店も畑も黒い靄に覆われ、後に残ったのは焼け跡と瓦礫だけだったという。
今ではすっかり建て直されて、通りには夕飯の支度をする匂いが漂っている。子どもたちが笑いながら駆け回り、どこかの家から母親が名前を呼ぶ声が聞こえた。
カイは通りの角にある小さな空き地の前で足を止めた。
雑草がまばらに生えているだけの、何の変哲もない場所だ。けれど昔はここに一軒の家が建っていて、カイはそこで両親と三人で暮らしていた。
あの日のことは、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、窓の外が真っ黒だったことと、母の手が冷たかったこと。それから父が「走れ」と叫んだ声だけだ。
気がついたときにはカイは一人で避難所の床に座っていて、両親が迎えに来ることは二度となかった。
カイは空き地の隅に落ちていた紙くずを拾い、懐にしまった。
ここを通るたびに、なんとなくそうしてしまうのだ。
迷宮がきれいなら、魔物はあふれない。だから誰かが毎日片づけなければならない。
八歳の自分には何もできなかったけれど、今の自分にはモップがある。
それだけのことだった。
空き地の向かいでは、近所の老婆が玄関先を掃いていた。カイに気づくと「今日もご苦労さま」と笑って手を振ってくれる。
カイは軽く頭を下げて家路を急いだ。夕食はセラと酒場でとる約束になっていたので、早く着替えなければならなかった。
その夜、カイは大通りに面した酒場でセラと向かい合っていた。
今日の日払いが出たので、昨日のお礼に夕食をおごらせてほしいと言われたのだ。断ろうとしたのだが、アルフォード家の名誉がかかっていると言われてはそれ以上何も言えなかった。
「どうぞ、好きなものを頼んでください!」
セラは胸を張って品書きを差し出した。
ところが料理を注文し終えたあたりで、彼女は財布の中身を何度も数え直し始めた。その顔がだんだん青ざめていく。
「アルフォードさん、宿代はもう払いましたか」
「……払いました。三日分」
「残りはいくらですか」
「銅貨が……七枚です」
カイは品書きの値段を思い浮かべた。二人分の夕食には、どう見ても足りない。
それでも初めての給金を受け取ったときのセラの顔は、見ているこちらがうれしくなるほど輝いていた。銅貨を一枚ずつ手のひらに並べては、何度も数えて大事そうに財布にしまっていたのだ。
「では割り勘にしましょう」
「うう……すみません。アルフォード家の名誉が……」
テーブルに突っ伏したセラの前で、カイは手持ちの布巾を取り出した。
テーブルの天板には、前の客がこぼした麦酒の染みがいくつも残っている。料理を待つあいだ、カイは無意識のうちにそれを一つずつ拭き取っていった。
ひとつ拭けば隣の染みが気になり、隣を拭けば縁の汚れが目に入る。気づけば天板はすっかり磨き上げられ、蝋燭の明かりをつややかに映していた。
「お客さん、それ……」
料理を運んできた店主が、目を丸くしてテーブルを見下ろした。
「すみません。つい」
「いや、謝ることはねえよ。十年使ってるテーブルがこんなに光ったのは初めて見た」
店主は感心したように何度もうなずくと、厨房に戻って腸詰めの皿を一枚追加で持ってきた。
「こいつはサービスだ。また来てくれよ」
去っていく店主の背中を見送ってから、セラが顔を上げてじっとカイを見た。
「カイさんって、どこでも掃除するんですね」
「汚れていると落ち着かないので」
「あの……一つ打ち明けてもいいですか」
セラは腸詰めにフォークを刺したまま、少しためらってから続けた。
「この剣、呪いは解けたはずなのに半分しか抜けないんです。今日もそれで、鞘のまま戦うしかなくて」
「知っていました」
「えっ」
「迷宮に下りる前から、何度も柄に手をかけては離していましたから」
セラは真っ赤になってうつむいた。
「たぶん、まだどこかに汚れが残っているんだと思います。今度きちんと見てみますね」
「……お願いします」
「でも気づいていたのに、何も聞かないでいてくれたんですね」
「言いたくなったら言ってくれると思ったので」
カイがそう答えると、セラはしばらく黙ってから小さく笑った。
そのとき、隣のテーブルから冒険者たちの話し声が聞こえてきた。
「おい聞いたか。リックのとこのパーティー、今朝第八層に下りたきりまだ戻ってないらしいぞ」
「第八層? あいつらの腕じゃ無茶だろ」
「最近は上層でも魔物の様子がおかしいからな。もう日も暮れたってのに、ギルドは救助隊も出せないんだとよ」
「三人ともまだ駆け出しだろうに」
誰かが麦酒の杯を置く音が、やけに大きく響いた。
カイはフォークを持ったまま動きを止めた。
向かいの席からセラが不安そうにこちらを見ている。
窓の外では、迷宮の方角の空だけが妙に暗く沈んで見えた。




