第4話
第五層へ続く階段は、上の階層よりもいくらか幅が狭い。
カイは先に立って一段ずつ下りながら、壁の染みや床の汚れを横目で確かめていった。第一層から第四層までは普段どおりで、瘴気の濃さも気になるほどではなかった。
「カイさん、第五層まではあとどれくらいですか」
「この階段を下りきれば着きます。詰め所を出てから五十分ですね」
「時間まで計ってるんですか」
「帰りの時間から逆算しないと、定時に間に合いませんので」
後ろを歩くセラが呆れたように息を吐くのがわかった。
彼女は朝のうちに渡されたモップを肩に担ぎ、腰にはあの銀の拵えの剣を吊るしている。着慣れない作業着の袖を何度もまくり直していたが、足取りだけは冒険者らしく軽かった。
最後の段を下りたところで、カイは足を止めた。
空気が違う。
湿った石の匂いの奥に、腐った果物のような甘ったるい臭いが混じっている。通路の壁際には黒い靄が膝の高さまで溜まり、ゆっくりと波打っていた。
「これが瘴気、ですか」
「はい。昨日の報告どおり、普段の三倍はありそうです」
カイはしゃがみ込んで靄に手をかざした。
ただ濃いだけではない。靄はまるで一か所から流れ出してきたように、通路の奥へ向かって筋を描いている。
普通の瘴気は死骸や戦いの跡からじわじわ湧くもので、こんなふうに川のような流れを作ることはまずなかった。
「奥から来ているようですね。たどってみましょう」
「わかりました。魔物が出たら、わたしが前に出ます」
セラはそう言って剣の柄に手を添えたが、その指先がわずかにこわばっていることにカイは気づいた。
迷宮へ下りる前からずっとそうだった。抜く気配を見せては手を離し、また添えては離すことを繰り返している。
何か理由があるのだろうと思ったが、カイは黙っていた。言いたくなれば言うだろうし、聞かれたくないことを聞くのは失礼だと思ったからだ。
◇
十分ほど進んだところで、通路の先から甲高い鳴き声が聞こえてきた。
暗がりに赤い光がいくつも灯る。
それが魔物の目だと気づいた瞬間、セラはモップを放り出して前に出ていた。
「ゴブリンです! 数は……七匹!」
緑色の小鬼たちが、錆びた短剣や棍棒を振りかざして一斉に駆けてくる。
普通のゴブリンは臆病で人間を見ればまず様子をうかがうものだ。けれどこの群れは違った。
目を真っ赤に光らせ、涎を垂らしながら、ためらいもなく突っ込んでくる。
セラは剣の柄を握り、一気に引き抜こうとした。
刀身が半分だけ鞘から滑り出て、そこでぴたりと止まる。
「やっぱり抜けない……!」
舌打ちしたい気持ちをこらえて、セラは鞘ごと剣を腰から外した。
抜けないなら抜かずに戦えばいい。鞘に収まったままの剣を両手で握り、先頭のゴブリンの棍棒を横から叩き落とす。
続けて飛びかかってきた一匹のみぞおちに柄頭をめり込ませ、返す動きでもう一匹の膝を払った。
体が覚えている。王都の道場で毎日のように振るっていた型が、考えるより先に手足を動かしていた。
けれど相手の数が多すぎる。
倒れたはずのゴブリンが痛みなど感じていないかのように起き上がり、また向かってくるのだ。七匹を相手に一人で押しとどめるのは、どう考えても無理があった。
「カイさん、下がっていてください! この子たち、普通じゃありません!」
叫びながら振り返ったセラは目に飛び込んできた光景に一瞬言葉を失った。
カイは下がっていなかった。
それどころか戦いのすぐ後ろでしゃがみ込み、黙々とモップを動かしていたのだ。
「何してるんですか!?」
「床が汚れるので」
見れば、倒れたゴブリンの流した血が石畳に点々と散っている。カイはそれを一つずつ丁寧に拭き取っていた。
「今それどころじゃないです!」
「すみません。ですが、ついでに瘴気も拭いていますので」
その言葉の意味を、セラはすぐに思い知ることになった。
カイのモップが通った場所から、黒い靄が嘘のように消えていく。そして靄が消えた場所に足を踏み入れたゴブリンから順に、赤い目の光がふっと弱まっていった。
一匹が棍棒を振り上げたまま動きを止め、きょとんとした顔で周りを見回す。
血走っていた目は、いつのまにかただの黄色い目に戻っていた。
ゴブリンは目の前の剣とセラの顔を見比べると、甲高い悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。それを合図にしたように、残りのゴブリンたちも次々と我に返って通路の奥へ散っていく。
あっという間に、その場にはセラとカイの二人だけが残された。
「……逃げた」
「瘴気が抜けると、ゴブリンは大人しくなるんです。もともと臆病な魔物ですから」
カイは何でもないことのように言って、最後の血痕を拭き終えた。
セラは鞘に収まったままの剣を握りしめ、まじまじと彼の横顔を見つめた。
自分がどれだけ打ち据えても止まらなかった魔物たちを、この人は床を拭くだけで鎮めてしまったのだ。
剣を振るっていたのは自分なのに、戦いを終わらせたのは間違いなくこの人のモップだった。
清掃員の仕事は地味でつまらないものだと思っていた。けれど今目の前で起きたことは、王都で見たどんな騎士の剣技よりも鮮やかに思えた。
◇
ゴブリンが逃げていった方向へ進むと、瘴気の流れはさらに濃くなっていった。
やがて通路は小さな広間に行き当たる。その中央に、黒い靄が井戸のように深く渦を巻いていた。
広間の壁には古い爪痕がいくつも残り、渦から立ちのぼる靄は天井近くまで届いている。
ここまで大きな瘴気溜まりを、カイは上層で見たことがなかった。
「ここが出どころみたいですね」
「これ、全部掃除するんですか」
「はい。四時までには終わらせたいので、少し急ぎます」
「四時? 定時は五時じゃなかったんですか」
「帰りに五十分かかりますから」
カイはモップを両手で握り直し、渦の縁から順に拭き取り始めた。
右手の甲の紋様が熱を帯びていく。ひと拭きするたびに黒い層が一枚ずつはがれ、渦はゆっくりと小さくなっていった。
セラは広間の入口に立って見張りをしていたが、何度も振り返ってはその様子を見つめていた。
「あの……さっきはありがとうございました」
「何がですか」
「ゴブリンのことです。カイさんがいなかったら押し切られていました」
「僕は掃除をしていただけですよ。戦ってくれたのはアルフォードさんです」
当たり前のように返されたセラは、なぜか照れたようにうつむいてしまった。
三十分ほどかけて、ようやく渦の底が見えてきた。
最後のひと拭きでモップの先が何か硬いものに当たり、かちりと小さな音が響く。
カイはかがみ込み、靄の消えた石の床からそれを拾い上げた。
親指ほどの大きさの、黒いガラスの破片だった。
割れた縁の形からすると、もとは小瓶だったのだろう。内側にはまだ黒い液体がわずかにこびりついていて、そこから細い糸のような瘴気がじわりと立ちのぼっていた。
迷宮の中に、こんなものが自然に転がっているはずがない。
カイは破片を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。




