第3話
迷宮清掃ギルドの詰め所は、冒険者ギルドの立派な石造りの建物から通りを二本隔てた裏手にあった。
壁の漆喰はところどころ剥がれ、看板の文字も半分かすれている。それなのに入口の石段だけは磨き上げたように白く光っていて、セラは思わず足元を見下ろした。
時刻は七時五十分で、約束には間に合ったはずだ。
「お、おはようございます……」
おそるおそる扉を開けると、中では十人ほどの清掃員が整列していた。その列の端で、昨日の青年が背筋を伸ばして立っている。
「おはようございます、アルフォードさん。時間どおりですね」
カイはまったく驚いた様子もなく、当然のようにうなずいた。
「では列の端に並んでください」
「え、あの、並ぶんですか」
「朝礼ですから」
言われるままに並ぶと、前に立つ白髪の老人がじろりとセラを見た。眉間に深い皺の刻まれた、いかにも厳しそうな人だ。
「カイ、その娘は誰だ」
「昨日、何でもすると言ってくれた方です。人手が足りないとギルド長がおっしゃっていたので」
「勝手に人を連れてくるなと何度……」
ギルド長のグラムは額を押さえて深いため息をついた。
ようやく話が見えてきたセラは、頬がかっと熱くなるのを感じた。つまりこの人は、自分の「何でもします」を就職の申し込みだと受け取ったのだ。
恥ずかしさのあまり逃げ出したくなったが、そこでふと宿の女将の顔が頭に浮かんだ。宿代が三日分たまっていて、今日中に払わなければ部屋を追い出されることになっている。
セラは一歩前に出て、勢いよく頭を下げた。
「セラ・アルフォードです! わたしをここで雇ってください!」
詰め所がしんと静まり返る。
「理由は」
「カイさんに命を助けてもらったので、その恩返しがしたいんです。それと……生活費がとても足りなくて」
正直に打ち明けると、清掃員たちの間から小さな笑いが漏れた。
グラムは腰の剣とくたびれた革鎧、そして震えをこらえて握られた拳を順番に眺めてから、ようやく口を開いた。
「冒険者の真似事をしている娘に、ゴミ拾いが務まるのか」
「務めます。何でもしますって言いましたから」
「……一週間だ。試しに使ってみて、続かなければそれまでだ」
「ありがとうございます!」
「教育係はカイ、お前がやれ。連れてきた責任を取れ」
「承知しました」
カイが平然と答えたところで、部屋の隅から気の抜けた声が聞こえてきた。
「ふわぁ……なんか騒がしいと思ったら、新人ちゃん?」
ソファの上で毛布の塊がもぞもぞと動き、中から猫の耳がぴょこんと飛び出した。
現れたのは小柄な獣人の女性だった。寝癖だらけの灰色の髪をかき上げながら、金色の目を眠たげに細めている。
「ミミ先輩です。この詰め所でいちばんの古株です」
カイに紹介されたミミは、にやりと笑ってセラの顔をのぞき込んだ。
「へえ、カイ君が女の子を拾ってくるなんて初めてだねえ。どこで引っかけたの?」
「ひ、引っかけてません!」
「第三層です」
「カイさんも答えなくていいです!」
ミミはけらけらと笑うと、そのまま毛布をかぶり直してしまった。
「先輩も一緒に教えてくれるんですよね?」
「先輩の仕事はね、後輩を見守ることなの。というわけでおやすみ」
数秒後には本当に寝息が聞こえてきた。
セラが助けを求めるように振り返ると、グラムは「いつものことだ」とだけ言い残して奥の部屋へ引っ込んでいった。
あれで本当に古株なのかとセラは首をかしげたが、カイは気にした様子もなく倉庫の鍵を取り出していた。
朝礼が終わると、カイは詰め所の裏手にある倉庫へセラを案内した。
棚には大小さまざまなモップや箒にバケツと麻袋、それに色のついた液体の瓶がずらりと並んでいる。どれもきちんと手入れされていて、埃ひとつ見当たらなかった。
「道具は毎日手入れをすると長持ちします。アルフォードさんの分のモップも用意しておきますね」
「清掃員の仕事は大きく分けて三つです」
カイは指を一本ずつ立てながら説明を始めた。
「一つ目は瘴気溜まりの処理です。魔物の死骸や戦いの跡からは黒い靄が出ていて、放っておくと魔物が凶暴になります。それを除去剤とモップで消していきます」
「昨日の剣にまとわりついていた、あれみたいなものですか」
「あれよりはずっと薄いですね。二つ目は死骸の回収で、三つ目が魔石の選別です。魔石はギルドに納めると、その分が給金に上乗せされます」
「給金……」
セラの耳がぴくりと動いたのを見て、カイは付け加えた。
「希望すれば日払いにもできますよ」
日払いなら今夜の宿代に間に合うかもしれない。頭の中で銅貨を数え始めたセラは、自分の顔がゆるんでいくのを止められなかった。
「やります! 全力でやります!」
セラは手近なモップをつかむと、気合を入れて構えた。
右足を引いて柄を両手で握り、穂先をまっすぐ相手の喉元へ向ける。剣術の教本どおりの見事な中段の構えだった。
カイはしばらくそれを眺めてから、静かに言った。
「アルフォードさん。モップは斬るものではなく拭くものです」
「わ、わかってます! つい癖で……」
慌てて穂先を床に下ろすと、倉庫の外からミミの笑い声が聞こえてきた。寝ていたはずなのに、どうやら一部始終を見ていたらしい。
午前中は詰め所のまわりで基本の動きを教わり、昼過ぎからは迷宮へ下りることになった。カイがモップを一度滑らせるだけで石畳の汚れは嘘のように消えていくのに、セラがやると泥を広げるばかりだった。
何度やっても線を引いたような跡が残ってしまい、そのたびにカイが黙って横から拭き直してくれた。
基本を一通り終えた昼過ぎにカイは迷宮の地図を広げ、これから第五層へ下りると告げた。昨日報告のあった瘴気の様子を確かめに行くのだという。
「初日からいきなり迷宮なんですか」
「浅い階層ですし、アルフォードさんは冒険者ですから。何かあったら魔物の相手をお願いするかもしれません」
「任せてください。そっちは本業です」
ようやく役に立てそうな話が出てきて、セラは胸を張った。
王都にいた頃は剣の稽古だけは誰にも負けなかったのだ。呪いのせいでこの数か月はまともに戦えなかったけれど、今なら本来の腕を見せられるはずだった。
更衣室でギルドの作業着に着替えると、灰色の生地は少し大きかったが思いのほか動きやすかった。鏡に映る自分は貴族の娘にも冒険者にも見えなくて、なんだかおかしくて小さく笑ってしまう。
最後に家宝の剣を腰に吊るして、セラは柄に手をかけた。
呪いが解けた今なら、ようやくまともにこの剣を振るえるはずだ。迷宮へ下りる前に、刃こぼれがないか一度確かめておきたかった。
すらりと刀身が鞘から滑り出る。
昨日までの暴れぶりが嘘のように、剣は素直に手になじんだ。
ところが刀身が半分ほど姿を見せたところで、何かに引っかかったように動きが止まってしまった。
「……あれ?」
もう一度力を込めて引いてみても、剣はびくともしない。
それ以上は指一本ぶんも抜けようとしない刀身の奥で、黒いものがかすかに揺らめいた気がした。




