第2話
振り下ろされる刃を前に、カイはモップの柄を斜めに構えた。
金属と木がぶつかる乾いた音が通路に響く。
普通なら柄ごと両断されていてもおかしくない一撃だったが、モップはわずかにしなっただけで刃をしっかりと受け止めていた。
「え……」
少女が目を丸くする。
カイ自身もこの柄の頑丈さには少し驚いていた。四年間毎日手入れをしてきた相棒だから、愛着のぶんだけ丈夫になったのかもしれない。
剣は押し返されたことに苛立ったように震え、刀身の黒い靄がさらに膨らんでいく。
間近で見ると、その靄は刃にこびりつくように何層にも重なっていた。何十年も放っておかれた鍋の焦げつきのようだとカイは思った。
「なるほど。これは手強いですね」
「感心してないで逃げてください! この剣、本気で人を斬るんです!」
「大丈夫です。汚れは落とせば落ちますから」
「汚れ……?」
カイは柄で刃を押さえたまま、モップの先をそっと刀身に当てた。
右手の甲の紋様がじわりと熱を帯びる。
そのまま根元から切っ先へ向かって、一度だけゆっくりと拭き上げた。
靄が悲鳴のような音を立てて剥がれ落ちていく。
剥がれた黒い欠片はモップの毛先に吸い込まれるように消えて、あとには鈍い銀色の刀身だけが残った。あれだけの靄を吸い込んだはずなのに、モップの毛先には黒ずみひとつ残っていない。
剣から力が抜け、少女の腕ごと床にがしゃんと落ちる。
しばらくのあいだ、通路には二人の荒い息づかいだけが響いていた。
「……止まった」
少女は信じられないものを見るように手の中の剣を見つめていたが、やがて勢いよく顔を上げてカイに詰め寄った。
「い、今のは何をしたんですか!?」
「拭きました」
「拭いた!?」
「はい。刀身にかなり汚れが溜まっていたので」
「汚れって、これは呪いですよ! 王都の鑑定士にも教会の神官様にも解けないって言われた呪いなんですよ!?」
「そうでしたか」
カイは刀身をのぞき込み、拭き残しがないか確かめるように目を細めた。
「では、頑固な錆だったんでしょうね」
「錆……」
少女は口をぱくぱくさせたまま固まってしまった。
そのあいだにカイは懐中時計を取り出し、小さく息をのんだ。
針は五時二分を指していた。
この四年間で定時を過ぎたのは、熱を出した同僚の分まで働いた日の一度きりだったはずだ。
「定時を過ぎています」
「はい?」
「申し訳ありませんが、これで失礼します。剣の具合が悪いようでしたら鍛冶屋さんに研いでもらうといいですよ」
一礼して背を向けたカイの外套を、少女があわててつかんだ。
「待ってください! 助けてもらってお礼もしないなんて、アルフォード家の名折れです!」
「アルフォード家?」
「あ、申し遅れました。わたしはセラ・アルフォード。Eランクの冒険者です」
少女は胸に手を当ててきちんと名乗った。土埃まみれの姿でも、その仕草だけは不思議と品がある。
「カイ・ロウです。迷宮清掃ギルドで清掃員をしています」
「清掃員……? 冒険者じゃないんですか」
「はい。では、お疲れさまでした」
「だから待ってください!」
結局セラは、早足で出口へ向かうカイの横にぴったりとついてきた。
道すがら聞いた話によると、あの剣はアルフォード家に代々伝わる家宝なのだという。
五年前に家が傾いてから手元に残ったのはこの剣だけで、ところがいつの間にか呪いがかかっていた。抜けば勝手に暴れ出し、手放そうとしても指から離れないらしい。
「冒険者になって稼ごうと思ったのに、剣のせいで依頼に失敗してばかりで……」
「それは大変でしたね」
「それより、さっきのは本当にただ拭いただけなんですか。清掃員の人ならみんなあんなことができるんですか」
「丁寧に拭けば誰でもできると思いますよ」
「絶対に嘘です」
セラはきっぱりと言い切ったが、カイは首をかしげるばかりだった。彼にとって汚れを落とすことは朝起きて顔を洗うのと同じくらい当たり前のことで、そこに特別な何かがあるとは考えたこともなかったのだ。
「だからあなたは恩人なんです。何かお礼をさせてください」
迷宮の出口が見えてきたところで、セラは腰の小袋を探った。
そして中をのぞいたまま、ぴたりと動きを止める。
「どうかしましたか」
「……空っぽでした」
小袋を逆さにしても、出てきたのは糸くずが一本だけだった。
セラは耳まで真っ赤になってうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「お金はありません。でもその代わり、わたしにできることなら何でもします!」
カイは少し考えた。
何でもすると言われて思い浮かぶことは一つしかなかった。人手の足りない職場で働く者にとって、それは何より切実な響きを持つ言葉だったからだ。
「では、明日の朝礼に遅れないでください」
「……はい?」
「朝八時に、迷宮清掃ギルドの詰め所です」
「え、あの、それってどういう」
「それでは」
カイは出口の衛兵に会釈して、今度こそ足早に去っていった。
◇
残されたセラは、夕暮れの広場でしばらく立ち尽くしていた。
手の中の剣はおとなしく、さっきまでの暴れぶりが嘘のように静まり返っている。刀身を覆っていた黒い靄もどこにも見当たらなかった。
「朝礼って……何?」
意味はまったくわからない。
今夜の宿代すら払えるかどうか怪しい身の上で、知らない場所へ朝から出向いている余裕などないはずだった。それでも王都を追われてから初めて、誰かが自分の剣を怖がらずに向き合ってくれたのだ。
けれどあの人の言うとおりにすれば何かが変わるような気がして、セラは剣の柄をそっと握りしめた。
「……八時。絶対に遅れないようにしなきゃ」
小さくつぶやいてから、セラは安宿の並ぶ裏通りへ歩き出した。
◇
カイが詰め所に戻ったのは五時四十分だった。
日報を書いていると、奥の部屋からグラムが険しい顔で出てきた。手には冒険者ギルドから回ってきたらしい報告書が握られている。
「カイ、まだいたのか」
「定時は過ぎていますが、日報がまだでしたので」
「そうか。……第五層で瘴気の濃度が上がっているそうだ。冒険者の話では普段の三倍はあるらしい」
「三倍ですか」
「それだけじゃない。あのあたりのゴブリンが妙に気が立っていて、目が赤く光っていたと言っている」
カイはペンを止めた。
第五層は上層の中でも浅い階層で、それほど瘴気が溜まる場所ではない。三倍という数字はどう考えても普通ではなかった。
「明日、確認に行きます」
「今からじゃないのか」
「定時を過ぎていますので」
グラムは呆れたように笑ったが、その目は報告書から一度も離れなかった。
「お前のその割り切りが、たまにうらやましくなるよ」
「早く寝れば、そのぶん明日は早く動けますから」
カイは当たり前のことのように答えて、書き上げた日報を棚に戻した。
日報を書き終えて詰め所を出たカイは、夕焼けに染まる迷宮の入口をなんとなく振り返った。
その奥から冷たい風がひとすじ吹き上げてくる。
いつもなら気にも留めないはずの風が、その夜だけはひどく湿った嫌な匂いをまとっていた。




