第1話
迷宮都市リーベルの朝は八つの鐘とともに始まる。
その鐘が鳴り終わるより早く、カイ・ロウは迷宮清掃ギルドの詰め所で背筋を伸ばして立っていた。
「本日の担当を読み上げる。第一班は第二層、第二班は第三層だ」
ギルド長のグラムが低い声で告げると、並んだ清掃員たちから気の抜けた返事が上がる。
カイの名前は第二班の欄にあった。
それを聞いた途端に彼の頭の中では今日の段取りが組み上がっていく。第三層まで下りるのに三十分、作業に七時間、戻りに三十分を見ておけば夕方五時の定時にはきっちり間に合う計算だった。
「カイ、今日は一人で頼む。ミミは……まあ、あれだ」
グラムが視線を向けた先では、猫耳の先輩が詰め所のソファで丸くなって寝息を立てていた。
「承知しました。定時までには戻ります」
「お前はいつもそれだな」
苦笑するグラムに一礼して、カイはモップとバケツと瘴気除去剤の瓶を担いで詰め所を出た。
深淵回廊の第三層は湿った石の匂いがする。
冒険者たちが昨夜のうちに戦ったのだろう。通路のあちこちにウルフの死骸が転がり、そのまわりには黒い靄がうっすらと溜まっていた。
瘴気と呼ばれるその靄は放っておくと魔物を凶暴にし、溜まりすぎれば氾濫を引き起こす。
だから誰かが片づけなければならないのだが、その誰かを引き受けているのが清掃員だった。
カイは死骸の前にしゃがみ込み、モップの柄を軽く握った。
右手の甲にある小さな紋様がほんのりと温かくなる。生まれつきの痣のようなもので、本人は特に気にしたこともない。
十五歳の鑑定でカイが授かったスキルは「清掃」で、神殿の鑑定士からは生活系の最下級だと告げられた。
戦いの役には立たず魔物を倒すこともできない力だが、汚れを落とすことにかけては誰にも負けないとカイは思っている。
モップを一度滑らせると、黒い靄は水に溶ける墨のように薄れて消えていった。
続けて死骸を麻袋に詰め、牙と魔石を選り分ける。魔石はギルドに納めれば小さな収入になるし、牙は肥料屋が引き取ってくれる。
「よし」
小さくうなずいて次の死骸へ移ろうとしたとき、背後から笑い声が聞こえた。
「おいおい、ゴミ拾いがまた地べたを這いずってるぜ」
振り返ると、赤い髪の若い冒険者が仲間を二人連れて立っていた。冒険者ギルドの若手で、名前はたしかリックといったはずだ。
「おはようございます。そこはまだ拭いていませんので足元にお気をつけください」
「聞いてねえよ」
リックは鼻で笑い、わざとらしく死骸を蹴飛ばしてみせた。黒い靄がふわりと舞い上がる。
「俺たちが命張って倒した魔物の後始末だ。せいぜい感謝して拾っとけよ」
「はい。ありがとうございます」
カイが素直に頭を下げると、リックは拍子抜けしたように舌打ちして通路の奥へ去っていった。
仲間の一人が「張り合いのねえやつ」とぼやく声が遠ざかっていく。
カイは蹴飛ばされた死骸を元の位置に戻し、舞い上がった瘴気をもう一度丁寧に拭き取った。
腹が立たないわけではないが、怒っている暇があるならそのぶん床を磨いたほうがいい。それに彼らが魔物を倒してくれるから自分の仕事があるのも事実だった。
清掃員は冒険者たちから「ゴミ拾い」と呼ばれている。
魔物と戦うわけでも宝を持ち帰るわけでもなく、ただ他人の散らかした跡を片づけるだけの仕事だと思われているからだ。
給金は安く、なり手も少ない。四年前にカイと一緒に入った同期たちは、一年もたたないうちに全員辞めてしまった。
それでもカイはこの仕事が嫌いではなかった。
汚れていた場所がきれいになる瞬間は気持ちがいいし、片づいた通路では魔物も心なしか大人しくなる。誰かの役に立っているという手応えが、目に見える形で残るのだ。
何より、きちんと片づけてさえいれば迷宮があふれ出すことはない。
その考えだけは、十一年前のあの日から一度も変わっていなかった。
昼食の黒パンをかじりながら懐中時計を確かめると、針は十二時ちょうどを指していた。
予定どおりだ。
午後も作業は順調に進み、第三層の東側の通路は見違えるほどきれいになった。石畳は濡れたように光り、瘴気の匂いもほとんど残っていない。
途中ですれ違った冒険者のパーティーが磨き上げられた石畳を見て「ここ本当に迷宮か」と首をかしげていたのは、少しだけ誇らしかった。
ところが午後四時半を回ったところで、カイはわずかに眉を寄せた。
最後の区画に、まだウルフの死骸が五体も残っていたのだ。
「二十分あれば……いけます」
そこからのカイの動きは、ほかの清掃員が見れば目を疑うものだった。
モップが床をなでるたびに瘴気が消え、死骸は次々と麻袋に収まっていく。魔石を選り分ける手つきに迷いはなく、牙を抜く角度まで毎回同じだった。
四時四十五分に最後の袋の口を縛り、四時四十八分にバケツの水を捨てて、四時五十分には道具をまとめて背負い終えていた。
「完璧です」
誰に言うでもなくつぶやいて、カイは満足げに通路を振り返った。
これなら定時の鐘が鳴るころには詰め所で日報を書き終えられるだろう。帰り道で夕飯のスープの材料を買って早めに寝ようと考えながら、彼は歩き出した。
「止まって! お願い止まって!」
通路の奥から甲高い悲鳴が響いてきたのは、そのときだった。
続いて何かが壁にぶつかる鈍い音がする。
カイは足を止め、懐中時計と通路の奥を交互に見た。針は四時五十一分を指している。
定時まではあと九分しかなく、ここから詰め所までは急いでも十五分はかかる。
「……見なかったことには、できませんよね」
ため息をひとつついて、カイは音のするほうへ駆け出した。
角を曲がった先にいたのは、十七歳くらいの少女だった。
金色の髪を後ろで束ねて使い込まれた革鎧を身につけているところを見ると、駆け出しの冒険者だろう。
ただその手にある長剣だけは、くたびれた装備に不釣り合いなほど立派な銀の拵えをしていた。
奇妙なのは、彼女が剣を振るっているのではなく剣に振り回されていることだった。
「やだ、止まってってば! そっちは壁!」
少女の握る長剣が勝手に跳ね上がり、彼女の体ごと石壁へ突っ込んでいく。
刀身には黒い靄がまとわりつき、まるで生き物のように脈打っていた。
それはカイが一日かけて拭いてきたものとは比べものにならないほど濃い瘴気だった。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫に見えますか!」
少女は涙目で叫びながら、剣に引きずられて床を転がった。
それでも柄から手を離さないのは、離せないからなのか離したくないからなのか。
「その剣は呪われていますね」
「知ってます! だから困ってるんです!」
「なるほど。では少し失礼します」
カイがモップを構えて一歩近づくと、剣の動きがぴたりと止まり、少女がほっとしたように息をついた。
けれど次の瞬間、刀身の黒い靄がいっそう濃く膨れ上がった。
剣先がゆっくりとカイのほうを向く。まるで自分を消しに来た相手を見定めるかのようだった。
「だめ、逃げて!」
少女の叫びと同時に、剣は彼女の手ごとカイめがけて振り下ろされた。




