第8話
化け物が鍾乳石を振りかぶった。
カイは逃げなかった。正確に言えばどこへ逃げればいいのかが見えていた。
化け物の体を覆う黒い靄は、腕が動くより一瞬早く動くのだ。右腕に靄が集まれば右から棍棒が来るし、足元が濁れば踏み込んでくる。
四年間毎日瘴気の流れを見てきたカイにとって、それは床の汚れがどちらへ広がるかを読むのと同じことだった。
靄が左へ流れる。
カイが右へ一歩ずれた直後に鍾乳石が鼻先をかすめて石畳を砕いた。
「まずは腕からですね」
振り下ろされたままの太い腕にカイはモップの穂先を当てた。手首から肘へ向かって一気に拭き上げる。
黒い靄がはがれ、毛先へと吸い込まれていった。
化け物が苦悶の声を上げる。拭き取った場所だけ黒い筋が消えて、もとの緑色の肌がのぞいていた。
それだけではなく腕そのものがひと回り細くなっている。
「やっぱり、汚れで膨らんでいたんですね」
この化け物の靄は、あの黒い壁と同じ匂いがした。第五層の小瓶から立ちのぼっていた細い糸とも同じだ。
穴の手前ではリックたちが息をのんでその光景を見つめていた。
化け物はもう片方の腕を振り回したが、その動きも靄が先に教えてくれた。カイはかがんでそれをやり過ごし、今度は脛を拭いた。
続けて膝と腿と脇腹を拭いていく。
一度だけ避けそこねて、鍾乳石の先が肩をかすめた。作業着の袖が裂けて熱い痛みが走ったが、カイは手を止めなかった。
拭くたびに化け物は縮んでいった。
天井に届きそうだった背丈が見上げるほどから見上げなくてもいいほどに変わっていく。赤く燃えていた目の光も、しだいに弱まっていった。
それと引き換えのように、カイの体の芯がまた冷えていく。指先がかじかんだように重くなったが、今はそれどころではなかった。
最後に胸の真ん中を大きく拭き払うと、化け物はよろめいて膝をついた。
そこにいたのは、どこにでもいる普通の大きさのオークだった。
◇
頭の奥で、誰かが床を拭く音がしていた。
セラはうっすらと目を開けた。壁に叩きつけられた背中がずきずきと痛む。
視界の端に、鞘に収まったままの剣が転がっているのが見えた。
その向こうでは灰色の作業着の青年がオークの前に立っていた。
さっきまで天井に届きそうだった化け物は、見慣れた大きさに縮んでいる。何が起きたのかはわからない。
けれどカイが何かをしたのだということだけは、はっきりとわかった。
王都の騎士団にもあんな戦い方をする人はいなかった。いや、そもそもあれを戦いと呼んでいいのかもわからない。
オークが最後の力を振り絞るように立ち上がり、カイに向かって腕を振り上げる。
考えるより先に体が動いていた。
セラは剣をつかんで床を蹴った。鞘のままの剣を大きく振りかぶり、オークの側頭部へ全身の力を込めて叩きつける。
鈍い音とともにオークは横倒しになり、今度こそ動かなくなった。
広間に静けさが戻る。
セラは荒い息をつきながら、剣を杖にしてようやく立っていた。
結局一度も剣を抜けなかった。それでも最後の一撃だけは自分の手で決めることができたのだと思うと、痛む背中が少しだけ誇らしかった。
「アルフォードさん、気がついたんですね。お怪我は」
「わたしは大丈夫です。それよりカイさん、肩から血が」
「かすっただけです。後で拭いておきます」
血は拭いて済むものではないと思ったが、それを言う元気はもう残っていなかった。
◇
地上に戻ったのは、真夜中を少し過ぎたころだった。
帰り道の第七層と第六層は、行きにカイが拭いておいたおかげで魔物の気配ひとつなかった。盾役の男は「こんなに静かな迷宮は初めてだ」と何度も首をかしげていた。
リックたち三人は迷宮を出るまでずっと無言で、ときおりカイの背中をちらちらと盗み見ていた。何か言いたげに口を開いては閉じるのを、何度も繰り返している。
入口の広場まで来たところでリックがようやく足を止めた。
そしていきなりその場で深々と頭を下げた。
「兄貴!」
「……はい?」
「今朝のこと、すまなかった! ゴミ拾いなんて言って、俺が馬鹿だった!」
リックは顔を上げると、目を輝かせてカイに詰め寄った。
「あんたは俺たちの命の恩人だ。今日から兄貴と呼ばせてくれ!」
「呼び方は自由ですが、僕は清掃員ですよ」
「関係ねえ! なんなら明日から俺も清掃ギルドに入る!」
「冒険者のほうが稼げると思いますよ」
「金の問題じゃねえんだよ! なあ兄貴、その荷物は俺が持つ!」
止める間もなく、リックはカイの手からバケツをひったくった。
中には迷宮で汲んだ汚れ水がたっぷりと入っている。片腕を怪我しているリックにその重さを支えられるはずもなく、バケツは大きく傾いた。
ばしゃりと音を立てて、汚れ水が石畳に広がった。
ついでにリックの靴とズボンも見事に水浸しになった。
「…………」
「…………」
カイは無言でモップを構え、広がった水を拭き始めた。
「す、すまねえ兄貴! 俺がやる!」
「怪我をしている人は休んでいてください」
リックの仲間たちが、肩を震わせて笑いをこらえている。
セラはその光景を眺めながら、どうしても言わずにはいられなかった。
「カイさん。あれ、絶対にただの掃除じゃないですよね」
「ただの掃除です」
「天井まであった化け物が、拭いたら縮んだんですよ」
「汚れで膨らんでいたので、落としたら元に戻っただけです」
「そういうのを普通は掃除って言わないんです!」
石畳を拭き終えたカイは、懐中時計を取り出して小さくため息をついた。
「明日の朝礼まで、あと七時間ですね」
「そこですか」
◇
翌朝、冒険者ギルドの受付には人だかりができていた。
第八層から生還したリックが、夜明けを待たずに事の次第を触れ回ったらしい。噂は朝のうちにギルドじゅうへ広がっていた。
受付の前では包帯を巻いたリックが、身振り手振りを交えて同じ話を何度も繰り返している。「兄貴のモップがこう動いて、化け物がしゅるしゅる縮んでいったんだ!」
「天井まで届く化け物を、モップで縮めたんだってよ」
「清掃員がか? 酒の飲みすぎだろ」
「いや、救助隊の連中も第八層の黒い壁が消えてたって言ってたぞ」
半信半疑の声が飛び交う中、受付の奥で一人の女性が報告書に目を落としていた。昨夜、カイとセラの応対をした受付嬢だ。
報告書には、第八層の通路を塞いでいた瘴気の壁が跡形もなく消えていたと書かれている。今朝出発した救助隊が確かめたものだった。
あれほどの瘴気を、たった一晩で消せる者などいるはずがない。
もし本当にそんな人物がいるのなら、ギルドが何年も探し続けてきた人材そのものだった。上層の魔物が増え続けている今、瘴気を消せる者が一人いるだけでどれほどの冒険者が救われるかわからない。
受付嬢は名簿の棚から清掃ギルドの登録簿を引き抜き、ページをめくった。
指先が一つの名前の上で止まる。
「カイ・ロウ……迷宮清掃ギルド所属、勤続四年」
その名前を書き写す受付嬢の目は、獲物を見つけた狩人のように光っていた。




