60話 『ちぎれる音、新しい紋章』
僕は走った。グレンが鉄を叩く。鉄が跳ねる。
横へ避ける。そこへグレンの金槌が来る。しゃがむ。槌が頭上を通り過ぎる。そのまま懐へ入ろうとした。でも。
グレンが足元の石を叩いた。石が砕ける。足場が崩れた。
「くっ……!」
思わず後ろへ飛んだ。距離が開く。グレンは動かない。ただ、僕が次にどこへ行くのかを見ている。
僕は周囲を見る。炉。金床。水場。作業台。鉄。石。さっきまで、全部ただの道具に見えていた。
でも違う。この場所そのものが、グレンの武器なんだ。
「……これじゃ」
僕は一度、息を吸った。グレンがまた動く。
「逃げ道がない……」
右。鉄が来る。左。石が崩れる。後ろ。水場。前。グレン。逃げ道が少しずつ消えていく。
――まずい。初めて、そう思った。
僕は旅人だ。どんな場所でも歩いてきた。足場が悪くても。知らない場所でも。道が分からなくても。でも。グレンは、その場所そのものを変えてくる。
なら。この場所を変えるグレンに対して、僕はどうすればいい?
その時、ふと思い出した。
旅をしているとき。知らない町へ着いたとき。知らない道へ入ったとき。僕はいつも、何をしていたか。
……人に聞く。地図を見る。道を覚える。目印を探す。そして、もう一つ。旅人なら、絶対にやることがある。
僕はグレンを見る。グレンは炉から金床へ向かっている。次に水場へ行く。そして、また炉へ戻る。
「……そうか」
僕は呟いた。
「道だ」
グレンが僕を見る。
「何?」
「職人にも、道がある」
グレンの眉が動いた。
僕は走る。グレンが金槌を振る。避ける。鉄が飛んでくる。避ける。水場へ向かう。グレンも水場へ動く。
――やっぱり。同じだ。炉から金床。金床から水場。水場から炉。何度も繰り返している。きっとグレンにとっては、考えることすらない体にしみついたルーティン。
……見えた。僕の視界の中で、グレンの足元からアリーナの設備へと繋がる見えない道が、一本の線となって浮かび上がった。
僕はグレンの前へ回り込んだ。
「……!」
グレンの足が止まる。初めて。グレンが迷ったように見えた。
「旅人は、知らない道を歩くんじゃない」
僕は一歩踏み込む。
「歩いた道を覚えるんだ」
職人として、グレンが毎日歩いてきた道。僕には、その道が見える。……これなら、読める。
「――《道読み》」
グレンが金槌を振る。僕は避ける。そして。グレンが次に向かう場所へ先回りする。グレンが止まる。また一歩。グレンが下がる。
「な……」
僕はさらに踏み込んだ。
「旅をしてれば、同じ道を何度も通ることがある」
グレンの足元を見る。次にどこへ行くのか。体の向き。足の位置。金槌を持つ手。全部を見る。
「だから、覚えてる」
グレンが金槌を振り上げた。僕はその瞬間、左へ動いた。グレンの槌が空を切る。
僕は、もうその先にいた。次にグレンが踏み出そうとした場所へ、僕は先に足を踏み込んだ。
「ぐっ……!?」
グレンの足が止まった。そのまま、僕は肩をぶつけた。
グレンの体が大きく傾いた。背中が石床へ激しく落ちる。槌が手から離れた。石床に落ちた槌が、鈍い音を立てた。
僕はグレンを見る。グレンはしばらく何も言わなかった。やがて。
「……そういうことかよ」
グレンが苦笑する。
「俺が毎日歩いてきた道を……お前は旅人として覚えたってわけか」
「……うん」
「職人の仕事場を、旅人の道にしやがった」
グレンが息を吐いた。その瞬間。グレンの胸元が、淡い緑色に光った。
金槌を思わせる形と、鉄を打ち、形を作るような線が浮かび上がる。いくつもの紋様が重なり、一つの記号を形作っていく。
「……これが、職人の称号紋……」
グレンがずっと持っていたもの。何年も鉄を打ってきた、その証。僕は手を伸ばした。
でも。指先が触れる直前で、止まった。
「……これ」
僕はグレンを見る。
「僕が獲ったら、グレンさんは……職人じゃなくなる?」
グレンの顔が歪んだ。
「何今更当たり前のこと言ってんだよ」
「いや……」
僕は称号紋を見る。
「グレンさん、ずっと鉄を打ってきたんだよね」
「ああ」
グレンは胸元の称号紋を掴むようにした。
「……渡したくねえよ」
その言葉は、はっきりしていた。
「って言えば。お前は、ここでやめるのか」
グレンが僕を見る。僕がまだ動かないでいると、グレンが鼻で笑った。
「なんだ。いらねえのか?」
「え?」
「欲しくて戦ったんだろ」
「……うん」
「だったら獲れよ」
荒い口調。
僕はもう一度、手を伸ばす。指先が、称号紋に触れた。その瞬間。
――熱い。気がつくと、炉の前に立っていた。目の前には、真っ赤に熱せられた鉄。
『――違う!』
誰かの声がする。振り返ると、怖い顔をした中年の男がいた。
『そこを打つんじゃねえ! 鉄を見ろ!』
『見てます!』
『見てねえから言ってんだ!』
槌が振り下ろされる。鉄が鳴る。――昔のグレンと、グレンの師匠。
『もう一度だ!』
また打つ。違う。また打つ。違う。何度やっても、思った形にならない。
『……くそ』
悔しくて、歯を食いしばる。それでも師匠は言った。
『もう一度』
――また。
『もう一度だ』
――またか。腕がちぎれそうなくらい痛い。手のひらが焼けるように熱い。それでも槌を握る。やっと形が整った。
『……できた』
思わず声が漏れる。師匠が鉄を見る。
『……まあ、悪くねえ』
それだけ。でも、その一言が嬉しかった。胸の奥が、熱くなった。
――別の日。鉄を打つ。一度。二度。三度。何度打っても、鉄が割れた。
『……なんでだよ』
最後には槌を置いた。声を出したら、負けた気がして。
悔しくて、誰もいない夜の作業場の隅で、拳を握った。涙が出た。でも、すぐに涙を拭う。そしてまた、槌を握った。
――また別の日。
『師匠、見てください!』
初めて自分一人で仕上げた短い剣を差し出す。師匠は受け取って、しばらく眺めた。
『……前より良くなったな』
その言葉だけで、一日中嬉しかった。もっと作りたくなった。もっと上手くなりたくなった。
――時間が過ぎる。自分が弟子を取る。
『そこじゃねえ。もっと鉄を見ろ』
昔、自分が言われた言葉を、そのまま弟子に言っている。
『見ても、分かりません』
『分からねえなら、打て』
『……どれくらいですか?』
『何度でもだ』
弟子が槌を握る。失敗する。悔しそうな顔をする。その顔を見て、昔のことを思い出す。
――グレンも、そうだった。何度も失敗した。何度も悔しくて。それでも、ここに戻ってきた。
炉の熱。金床の重さ。槌を握った手。火傷した指。師匠の怒鳴り声。初めて褒められた日の嬉しさ。一人で泣いた夜。
弟子が初めて自分で作った小さな刃を、恐る恐る差し出してきた日のこと。
『……どうですか?』
『まだまだだ』
そう言いながら、嬉しかった。
全部。全部が、僕の中へ流れ込んでくる。
「……っ」
僕は息を呑んだ。
熱い。苦しい。悔しい。嬉しい。いろんな感情が、僕の中を駆け抜けていく。
それは、ただの記憶じゃなかった。グレンが何年もかけて積み重ねてきた時間そのものだった。
「……これが」
僕は呟く。
「グレンさんの……」
称号紋が、淡い緑の光を強くする。僕は、その光を掴んだ。グレンの時間が、まだ僕の中を流れている。
それでも。
僕は、手に力を込めた。思い切り、毟り取る。
ブチッ――と、ちぎれる音がした。光が僕の体へ流れ込んでくる。
グレンの胸元から、光が消えた。代わりに、僕の胸元に新しい称号紋が浮かび上がる。――職人。
「……」
僕は胸元に手を当てた。まだ熱い。さっきまでグレンの中にあったものが、ここにある。
「……グレンさん」
「なんだよ」
「僕……」
言葉が続かない。何を言えばいいのか、分からなかった。
すると、グレンが小さく息を吐いた。
「……続けろよ」
「え?」
「職人」
グレンが僕の胸元を見る。
「途中で投げ出すんじゃねえぞ」
「……」
「お前、言ったよな。職人になりたいって」
「……うん」
「だったら、最後までやれ」
「……うん」
「もし、すぐにその称号を手放したりしたら――」
グレンが僕を見る。
「絶対、許さねえ」
心臓の音がうるさい。ドクン、ドクン、と称号紋を伝って響いてくる。
「……分かった」
僕は言った。グレンは何も言わなかった。ただ、少しだけ笑った。
僕は胸元へそっと手をやった。まだ、グレンの熱が残っている。――職人。それが、僕の新しい称号だった。




