五十三話 『百クレストの価値』
「じゃあ、どうして絵を描いてるの?」
僕が聞くと、少年は少し困ったような顔をした。
「……どうしてって」
少年は、自分の絵を見る。しばらく黙っていた。
「絵を描くのが、好きだからです」
「好きだから?」
「うん」
少年は小さく頷いた。
「それに……夢があるから」
「夢?」
「……画家」
「画家……」
僕は、その言葉を繰り返した。少年は、少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「いつか、なりたいんです」
「画家になりたいの?」
「うん」
「ずっと?」
「……ずっと」
少年は、もう一度頷いた。
「だから、絵を描いてるの?」
「うん」
少年は、自分の描いた絵を見つめた。
「僕は、画家じゃないけど……」
そう言って、少しだけ筆を握り直す。
「画家になりたくて、毎日描いてます」
「え、毎日!?」
「うん。朝も描くし、時間があれば昼も。夜になるまで描いてることもあります」
「……そんなに」
「描いてると、時間を忘れちゃって」
少年は小さく笑った。
「絵を描いてると、その中に入れるような気がするんです」
「絵の中に?」
「うん」
少年は、川の絵を見る。
「ここに描いた川も、街も……描いてると、その場所にいるみたいで。その時だけは、楽しいんです」
少年は少しだけ嬉しそうだった。
「だから、もっと描きたい」
「……そっか」
僕は少年の絵を見る。そこには、川があった。街があった。人がいた。そして、その全部が少年の目に映ったものだった。
少年は『画家』ではない。『画家』という称号も持っていない。それでも、毎日絵を描いている。画家になりたいから。
「毎日描いてたら、いつか画家になれるかな」
少年が、ぽつりと呟いた。僕は少し考えてから答える。
「なれるんじゃないかな」
「本当に?」
「うん」
僕は頷いた。
「だって、こんなに絵を描いてるんだから」
少年は少し驚いたように僕を見る。それから、ほんの少しだけ笑った。
「そう、ですね」
その笑顔は、さっきより少しだけ明るかった。
僕は、もう一度少年の絵を見た。川。街。草原。そして、そこにいる人たち。どの絵も、少年が見たものをそのまま描いているように見えた。
「……すごいな」
少年には、やりたいことがある。画家になりたい。だから、毎日絵を描いている。
僕には、まだない。これがやりたい。そう言えるものが、まだ見つかっていない。
旅人。今の僕には、その称号がある。でも、それは僕が一生かけてやりたいものなのかは分からない。
「いいな」
思わず、そう呟いていた。
「え?」
少年が僕を見る。
「いや」
僕は首を横に振った。
「なんでもない」
もう一度、少年の絵を見る。
少しだけ、羨ましかった。自分が何になりたいのか分かっていることが。そのために、毎日何かを続けていることが。
僕には、まだそれがない。だから、僕も探さなきゃいけない。この旅の中で。僕が、本当にやりたいことを。
僕は、周囲を見回した。
やっぱり、誰も絵を見ていない。少年に称号がないから。たぶん、それだけなんだと思う。
でも、僕には関係なかった。僕はこの絵を見て、綺麗だと思った。見ていると、なんだか落ち着く。それでいいんじゃないかと思った。
僕は、もう一度さっきの絵を見る。古びた街並みの中で、たくさんの人が笑っている絵。やっぱり、いい。
「ねえ」
僕は少年を見る。
「これ、売ってくれる?」
「……え?」
少年が目を丸くした。
「この絵」
僕は絵を指差す。
「これを?」
「うん」
少年は、しばらく僕と絵を交互に見ていた。
「……でも」
「駄目かな?」
「い、いえ……そうじゃなくて」
少年は慌てて首を横に振る。
「僕、売るつもりで描いてたわけじゃないから」
「そっか」
「だから、お金なんて……」
少年は困ったように俯いた。
「でも、僕、その絵が欲しいんだ」
「……え?」
僕は絵を見る。
「この絵には、価値があると思う」
「……」
「だから、僕が払いたいんだ」
少年は何も言わなかった。
僕は鞄から財布を取り出した。中を確認する。残り、二百クレスト。
これからも旅を続けるなら、お金は必要だ。宿にも泊まらないといけないし、食べ物も買わないといけない。だから、全部渡すわけにはいかない。今日の食事代と宿代くらいは残しておこう。
僕は財布の中から、半分のお金を取り出した。
「これで」
「え……?」
僕は少年にお金を差し出す。
「ひゃ、百クレスト……!?」
少年が言った直後、後ろからアルフィーの声が飛んできた。
「おい、ゼロ!」
「ん?」
「……お前、正気か?」
「え?」
アルフィーは僕の手元のお金を見る。
「たかが一枚の絵に、そんなに出すのか?」
「うん」
「百クレストだぞ」
「分かってるよ」
「旅の途中だ。これから宿にも泊まるし、食料だって買わないといけないだろ」
「うん」
「だったら――」
アルフィーが言いかけて、少年の持っている絵を見る。
「……それに、そいつは画家じゃない。称号だってないんだぞ」
「それは関係ないよ」
「……」
アルフィーが黙る。
隣にいたフィオナも、少し驚いたように僕を見る。それから、僕の手元のお金と少年の絵を交互に見ていた。たぶん、フィオナも驚いている。
でも、僕はもう決めていた。少年にお金を渡すと、少年は手の中の硬貨を見つめた。
「こんなに……いいんですか?」
「いいよ」
「でも、こんなに払ってもらうような絵じゃ……」
僕は笑った。
「僕が欲しいんだから、大丈夫」
「……」
僕は絵を受け取る。そして、もう一度その絵を見る。
「僕、この絵、好きだよ」
少年は何も言わなかった。ただ、絵を見ている。自分が描いた絵を。しばらくして、少年の目に涙が浮かんだ。
「……えっ」
僕は少し戸惑った。
「どうしたの?」
「……ごめん、なさい」
少年は慌てて顔を伏せた。
「なんで謝るの?」
「……だって」
少年は袖で目を拭った。
「嬉しくて」
「嬉しい?」
「うん」
少年は涙を拭きながら、小さく頷いた。
「自分の絵を、好きだって言ってもらったの……初めてだから」
「……そっか」
僕は、何と言えばいいのか分からなかった。でも――。
僕も、少し嬉しかった。自分が好きだと思ったものを。ちゃんと誰かに伝えられた。それだけのことなのに。なんだか、胸の奥が少しだけ温かくなった。




