↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
52/54

五十二話 『色溢れる虚人』

 市場を離れるにつれて、人の声が少しずつ遠くなっていく。


 僕は歩きながら、さっきの男たちのことを考えていた。大商人。剣闘士。どっちも、僕が聞いたことのないくらい立派な称号だった。


 でも、称号を持っていることと、その人が本当にその道を歩いていることは、別なのかもしれない。


「……」


 僕は、自分の胸元を見る。そこには、僕の称号があった。旅人。


「……じゃあ」


 僕は小さく呟いた。


「僕は、本当に旅人なのかな」


「急にどうした?」


 アルフィーが聞く。


「さっきの人たち見てたら、ちょっと気になって」


「……まあ、難しいこと考えるなよ」


「うん」


 僕は頷いた。そのときだった。


「……あ」


 フィオナが突然立ち止まった。


「フィオナ?」


 僕たちは振り返った。フィオナは街の外れの方を見ていた。


「どうかしたの?」


「……あそこ」


 フィオナが指を差す。建物の向こうに、街の外へ続く道が見えている。


「何かあるの?」


 僕もそっちを見る。でも、特に変わったものはない。アルフィーも目を細めた。


「何も見えないな」


「……さっき、あそこに――」


 フィオナはそう言いかけて、黙った。


「?」


「……ううん」


 フィオナは首を横に振る。


「気のせいかも」


「そっか」


 僕はそれ以上聞かなかった。でも――。そのとき、フィオナがもう一度だけ後ろを振り返った。


「フィオナ?」


「……なんでもない」


 フィオナはそう言って前を向いた。


 その先で。一瞬だけ、巨大な影がうごめいたかのように陽の光が遮られた気がした。でも、ほんの一瞬で元に戻った。そして、僕たちはまた歩き始めた。


 市場を抜け、街の外れへ向かう。人通りは少しずつ減っていく。さっきまで聞こえていた商人たちの声も、いつの間にか遠くなっていた。


 しばらく歩いていると、大通りから少し外れたところに細い道があった。


「こっち、行ってみる?」


 僕が聞くと、アルフィーが道の先を見る。


「川に出るみたいだな」


「川?」


「ああ。昨日とは違う川だ」


 僕は少し興味が湧いて、その道を進んでみることにした。建物の間を抜ける。少しずつ、人の声が遠くなっていく。そして――。


「……わぁ」


 道の先が開けていた。


 目の前に、小さな川が流れている。太陽の光を受けた水面が、きらきらと光っていた。川沿いには草が広がっていて、風が吹くたびにゆっくり揺れている。


 遠くには街が見える。さっきまで歩いていた場所なのに、ここから見ると少し違って見えた。


「綺麗……」


 フィオナが小さく呟いた。


「うん」


 僕も頷く。しばらく、三人とも黙って景色を見ていた。川の音が聞こえる。風の音も聞こえる。なんだか、落ち着く場所だった。


「もう少し歩いてみようか」


 僕が言うと、二人も頷いた。僕たちは川沿いの道を歩き始めた。すると、少し先に誰かがいるのが見えた。


「あれ?」


 道の端に、一人の少年が座っている。


 その周りには、何枚もの絵が並べられていた。川の絵。街の絵。草原の絵。人が歩いている絵もある。どれも、丁寧に描かれていた。


 僕は思わず足を止めた。


「……綺麗だ」


 さっき見た景色とは、また違う。同じ川を描いているのに、絵の中では少し違って見える。水面も。空も。街も。なんだか、優しく見えた。


 僕は一枚の絵に近づいた。その絵には、古びた街並みの中で、たくさんの人が笑い合う姿が描かれていた。


 夕暮れの温かい光に包まれた街並みは、どこか寂しげなのに、そこに描かれた人々の笑顔は、見ているこっちの胸の奥までじんわりと温かくなるような、不思議な生命感に満ちていた。


「……これ、好きだな」


 僕が呟くと、アルフィーとフィオナも絵を見る。


「上手いな」


 アルフィーが短く言った。


「……うん」


 フィオナも小さく頷いた。


 僕は、もう一度少年を見る。少年は、僕たちに気づいていなかった。目の前の絵に夢中になっている。


 青みがかった緑色の髪を首筋のあたりで一つに結び、筆を動かしている。前髪が目元にかかるたび、少年は少しだけ顔を傾ける。


 生成り色の少し大きめなシャツには、いくつもの絵の具の跡が残っていた。細い指先にも、青や赤や黄色の絵の具が染みついている。服装は質素なのに、その少年の周りだけは、色で溢れていた。


 筆を動かして、少し離れて絵を見て、また筆を動かす。そんなことを繰り返していた。


 僕たちが近くまで来ても、気づかない。僕はしばらく、その様子を見ていた。すると――。


「……あ」


 少年が、ふと顔を上げた。僕たちと目が合う。


「……っ」


 少年の顔が、一気に赤くなった。そして、慌てたように自分の絵を両手で隠す。


「え?」


 僕は思わず首を傾げる。どうして隠すんだろう。僕は、ただ絵を見ていただけなのに。


 少年は絵を隠したまま、俯いている。耳まで赤くなっていた。


「どうしたの?」


 僕が聞くと、少年は小さな声で答えた。


「……見ないでください」


「え?」


「……こんな下手な絵、見ないで……」


 少年は、絵を隠したまま俯いている。


「どうして隠すの?」


 僕が一歩近づくと、少年は少しだけ後ろに下がった。


「……」


 もう一歩、近づく。すると、少年もまた一歩後ろに下がる。


「……えっと」


 僕は少し困ってしまった。怖がらせたいわけじゃない。


「僕、絵を見てるだけだよ」


「……うん」


 少年は小さく返事をした。それでも、まだ絵を隠している。僕は隠された絵を見て、それから少年を見る。


「すごく上手だと思う」


「……え?」


「君の絵。すごく綺麗だった」


 少年が少しだけ顔を上げた。


「本当に?」


「うん」


 僕は頷く。


「僕、絵のことはよく分からないけど。その……見てて、綺麗だなって思った」


「……」


 少年は黙って僕を見る。それから、少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 そう言った後、少年はしばらく何も言わなかった。やがて、小さな声で呟く。


「優しいんですね」


「え?」


 僕は思わず聞き返した。


「なんで?」


 少年は絵を隠したまま、少し困ったように笑った。


「だって」


 少年は、ゆっくり口を開く。


「こんな絵を褒めてくれる人……あなたが初めてだから」


 少年の顔を見ていると、ふと昔の自分を思い出した。王都で、虚人《きょじん》と呼ばれていた頃の自分。少年の姿が、どこか重なる。


「……」


 言葉が出なかった。こんなに綺麗なのに。どうして、誰も褒めないんだろう。


 僕は、周囲を見回した。さっきから、何人もの人が川沿いの道を通っている。でも――。


「誰も、見てない……」


 少年の前を通り過ぎても、足を止める人はいない。絵が置いてあることに気づいている人さえ、ほとんどいなかった。少年がぽつりと言った。


「見ても、意味ないから」


「意味ない?」


 僕は首を傾げる。そのとき、後ろから歩いてきた男が、少年の絵をちらっと見た。


「なんだ、これ」


 男は足を止めることもなく言った。


「どうせ価値なんかないくせに、こんなところで描くなよ」


「……すみません」


 少年は小さく呟いた。別の人が通ったときには、置いてあった絵の端に足が当たった。


「あ」


 絵が倒れる。でも、その人は振り返りもしなかった。少年が慌てて立ち上がり、倒れた絵を拾う。僕は、その様子を見ていた。


「どうして?」


 思わず、もう一度聞いた。少年は拾った絵を抱えたまま、少し俯く。


「しかたないんだ。僕には……称号がないから」


「称号が……ってことは、君――」


「……うん」


 少年は小さく頷いた。


「僕、虚人なんです」


「……虚人」


 その言葉を聞いた瞬間。頭の奥が、少しだけ痛くなった。王都の門。あの場所で、何度も聞いた言葉。虚人。少年は、続ける。


「称号がない人の絵なんて、誰も見ないです」


「……」


「見ても、意味がないって」


 少年は、そう言って笑った。でも、その笑顔は少し寂しかった。


 僕は何も言えなかった。ただ、少年が抱えている絵を見た。


 さっきまで、僕が綺麗だと思っていた絵。こんなに綺麗なのに。どうして、称号がないだけで――。そんなことを考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。