五十二話 『色溢れる虚人』
市場を離れるにつれて、人の声が少しずつ遠くなっていく。
僕は歩きながら、さっきの男たちのことを考えていた。大商人。剣闘士。どっちも、僕が聞いたことのないくらい立派な称号だった。
でも、称号を持っていることと、その人が本当にその道を歩いていることは、別なのかもしれない。
「……」
僕は、自分の胸元を見る。そこには、僕の称号があった。旅人。
「……じゃあ」
僕は小さく呟いた。
「僕は、本当に旅人なのかな」
「急にどうした?」
アルフィーが聞く。
「さっきの人たち見てたら、ちょっと気になって」
「……まあ、難しいこと考えるなよ」
「うん」
僕は頷いた。そのときだった。
「……あ」
フィオナが突然立ち止まった。
「フィオナ?」
僕たちは振り返った。フィオナは街の外れの方を見ていた。
「どうかしたの?」
「……あそこ」
フィオナが指を差す。建物の向こうに、街の外へ続く道が見えている。
「何かあるの?」
僕もそっちを見る。でも、特に変わったものはない。アルフィーも目を細めた。
「何も見えないな」
「……さっき、あそこに――」
フィオナはそう言いかけて、黙った。
「?」
「……ううん」
フィオナは首を横に振る。
「気のせいかも」
「そっか」
僕はそれ以上聞かなかった。でも――。そのとき、フィオナがもう一度だけ後ろを振り返った。
「フィオナ?」
「……なんでもない」
フィオナはそう言って前を向いた。
その先で。一瞬だけ、巨大な影がうごめいたかのように陽の光が遮られた気がした。でも、ほんの一瞬で元に戻った。そして、僕たちはまた歩き始めた。
市場を抜け、街の外れへ向かう。人通りは少しずつ減っていく。さっきまで聞こえていた商人たちの声も、いつの間にか遠くなっていた。
しばらく歩いていると、大通りから少し外れたところに細い道があった。
「こっち、行ってみる?」
僕が聞くと、アルフィーが道の先を見る。
「川に出るみたいだな」
「川?」
「ああ。昨日とは違う川だ」
僕は少し興味が湧いて、その道を進んでみることにした。建物の間を抜ける。少しずつ、人の声が遠くなっていく。そして――。
「……わぁ」
道の先が開けていた。
目の前に、小さな川が流れている。太陽の光を受けた水面が、きらきらと光っていた。川沿いには草が広がっていて、風が吹くたびにゆっくり揺れている。
遠くには街が見える。さっきまで歩いていた場所なのに、ここから見ると少し違って見えた。
「綺麗……」
フィオナが小さく呟いた。
「うん」
僕も頷く。しばらく、三人とも黙って景色を見ていた。川の音が聞こえる。風の音も聞こえる。なんだか、落ち着く場所だった。
「もう少し歩いてみようか」
僕が言うと、二人も頷いた。僕たちは川沿いの道を歩き始めた。すると、少し先に誰かがいるのが見えた。
「あれ?」
道の端に、一人の少年が座っている。
その周りには、何枚もの絵が並べられていた。川の絵。街の絵。草原の絵。人が歩いている絵もある。どれも、丁寧に描かれていた。
僕は思わず足を止めた。
「……綺麗だ」
さっき見た景色とは、また違う。同じ川を描いているのに、絵の中では少し違って見える。水面も。空も。街も。なんだか、優しく見えた。
僕は一枚の絵に近づいた。その絵には、古びた街並みの中で、たくさんの人が笑い合う姿が描かれていた。
夕暮れの温かい光に包まれた街並みは、どこか寂しげなのに、そこに描かれた人々の笑顔は、見ているこっちの胸の奥までじんわりと温かくなるような、不思議な生命感に満ちていた。
「……これ、好きだな」
僕が呟くと、アルフィーとフィオナも絵を見る。
「上手いな」
アルフィーが短く言った。
「……うん」
フィオナも小さく頷いた。
僕は、もう一度少年を見る。少年は、僕たちに気づいていなかった。目の前の絵に夢中になっている。
青みがかった緑色の髪を首筋のあたりで一つに結び、筆を動かしている。前髪が目元にかかるたび、少年は少しだけ顔を傾ける。
生成り色の少し大きめなシャツには、いくつもの絵の具の跡が残っていた。細い指先にも、青や赤や黄色の絵の具が染みついている。服装は質素なのに、その少年の周りだけは、色で溢れていた。
筆を動かして、少し離れて絵を見て、また筆を動かす。そんなことを繰り返していた。
僕たちが近くまで来ても、気づかない。僕はしばらく、その様子を見ていた。すると――。
「……あ」
少年が、ふと顔を上げた。僕たちと目が合う。
「……っ」
少年の顔が、一気に赤くなった。そして、慌てたように自分の絵を両手で隠す。
「え?」
僕は思わず首を傾げる。どうして隠すんだろう。僕は、ただ絵を見ていただけなのに。
少年は絵を隠したまま、俯いている。耳まで赤くなっていた。
「どうしたの?」
僕が聞くと、少年は小さな声で答えた。
「……見ないでください」
「え?」
「……こんな下手な絵、見ないで……」
少年は、絵を隠したまま俯いている。
「どうして隠すの?」
僕が一歩近づくと、少年は少しだけ後ろに下がった。
「……」
もう一歩、近づく。すると、少年もまた一歩後ろに下がる。
「……えっと」
僕は少し困ってしまった。怖がらせたいわけじゃない。
「僕、絵を見てるだけだよ」
「……うん」
少年は小さく返事をした。それでも、まだ絵を隠している。僕は隠された絵を見て、それから少年を見る。
「すごく上手だと思う」
「……え?」
「君の絵。すごく綺麗だった」
少年が少しだけ顔を上げた。
「本当に?」
「うん」
僕は頷く。
「僕、絵のことはよく分からないけど。その……見てて、綺麗だなって思った」
「……」
少年は黙って僕を見る。それから、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
そう言った後、少年はしばらく何も言わなかった。やがて、小さな声で呟く。
「優しいんですね」
「え?」
僕は思わず聞き返した。
「なんで?」
少年は絵を隠したまま、少し困ったように笑った。
「だって」
少年は、ゆっくり口を開く。
「こんな絵を褒めてくれる人……あなたが初めてだから」
少年の顔を見ていると、ふと昔の自分を思い出した。王都で、虚人と呼ばれていた頃の自分。少年の姿が、どこか重なる。
「……」
言葉が出なかった。こんなに綺麗なのに。どうして、誰も褒めないんだろう。
僕は、周囲を見回した。さっきから、何人もの人が川沿いの道を通っている。でも――。
「誰も、見てない……」
少年の前を通り過ぎても、足を止める人はいない。絵が置いてあることに気づいている人さえ、ほとんどいなかった。少年がぽつりと言った。
「見ても、意味ないから」
「意味ない?」
僕は首を傾げる。そのとき、後ろから歩いてきた男が、少年の絵をちらっと見た。
「なんだ、これ」
男は足を止めることもなく言った。
「どうせ価値なんかないくせに、こんなところで描くなよ」
「……すみません」
少年は小さく呟いた。別の人が通ったときには、置いてあった絵の端に足が当たった。
「あ」
絵が倒れる。でも、その人は振り返りもしなかった。少年が慌てて立ち上がり、倒れた絵を拾う。僕は、その様子を見ていた。
「どうして?」
思わず、もう一度聞いた。少年は拾った絵を抱えたまま、少し俯く。
「しかたないんだ。僕には……称号がないから」
「称号が……ってことは、君――」
「……うん」
少年は小さく頷いた。
「僕、虚人なんです」
「……虚人」
その言葉を聞いた瞬間。頭の奥が、少しだけ痛くなった。王都の門。あの場所で、何度も聞いた言葉。虚人。少年は、続ける。
「称号がない人の絵なんて、誰も見ないです」
「……」
「見ても、意味がないって」
少年は、そう言って笑った。でも、その笑顔は少し寂しかった。
僕は何も言えなかった。ただ、少年が抱えている絵を見た。
さっきまで、僕が綺麗だと思っていた絵。こんなに綺麗なのに。どうして、称号がないだけで――。そんなことを考えていた。




