五十話 『ひだまり亭の夜』
川を渡ったあと、僕たちはしばらく西へ歩いた。空が少しずつ赤くなっている。そろそろ今日の寝る場所を決めたほうがいい。
「……そういえば」
僕は昼間、町で聞いた話を思い出した。
「この辺に、宿があるって言ってなかったっけ?」
「ああ」
アルフィーが答える。
「飯がうまいって話の宿だろ」
「うん。たしか、安いとも言ってた」
「安いならいい」
「泊まるの?」
「……」
アルフィーが少し黙った。
「野宿でいいだろ」
「でも、何日か続いてるよ?」
「寝られる」
「お風呂もないけど」
「……」
また黙った。
「それに、ちょっと疲れてきたし」
「……そうだな」
アルフィーは小さく息を吐いた。
「一泊くらいならいい」
「やった」
僕がガッツポーズすると、フィオナも安心したように肩を下ろす。
「ただし、一番安い部屋だ」
「分かった」
僕たちはそのまま道を進んだ。
しばらくして、道の脇に小さな建物が見えてきた。二階建て。木造で、少し古い。
『ひだまり亭』
大きな看板が一枚、軒先からぶら下がっている。
「……ここかな」
僕が地図と建物を見比べる。
「たぶんそうだろ」
アルフィーが答えた。
扉を開ける。中に入った瞬間、温かい匂いがした。焼いた肉の匂い。それから、野菜と香草の匂い。
「……いい匂い」
思わず声が出た。
「いらっしゃい」
奥から声がした。出てきたのは、四十代くらいの男だった。大きな体をしている。白いシャツの袖をまくり、片手には布巾を持っていた。
「三人か?」
「はい」
「泊まりか?」
「一番安い部屋ってありますか?」
僕が聞くと、男は少し笑った。
「あるよ。三人一部屋なら、夕飯と朝飯付きで一人三十クレスト」
「え、三十?」
僕は思わず聞き返した。安い。前に泊まった宿より、ずっと安かった。アルフィーも少し考えている。
「……風呂は?」
「ある」
「ご飯って……硬いパンだけ、とか?」
つい聞いてしまう。
「硬くはない。それにパンだけじゃない。さっきからいい匂いがしてるだろ」
男が笑う。
「うちはな、飯だけは自信がある」
その言葉に、僕はアルフィーを見る。アルフィーは少しだけ目を細めた。
「……三十なら、まあいい」
「じゃあ、決まりだな」
男が頷く。
「名前は?」
「ゼロです。こっちはアルフィーとフィオナ」
「そうか。俺はこの宿をやってる」
男はそう言って、自分の胸元に手を当てた。
「……『宿の主』っていう称号なんですか?」
「ああ。宿を始めてから、いつの間にかな」
宿の主はそれだけ言って、僕たちの荷物を見た。
「旅の途中か?」
「はい」
「なら、今日はゆっくりしていけ。風呂は夕飯の前でも後でもいい。飯は今作ってるところだ」
「ありがとうございます」
「それと――」
宿の主がアルフィーを見る。
「そこのあんた」
「……なんだ」
「金のことを気にしてる顔をしてるな」
「……」
アルフィーが黙った。
「うちは安いから安心しろ」
「……そうする」
宿の主は笑った。
「じゃあ、部屋を案内する」
案内された部屋には、布団が三つ並べて敷いてあった。それだけだった。小さな机と、窓が一つ。飾り気のない、簡素な部屋だった。
「……いいな」
僕は呟いた。ちゃんとした布団を見るのは、少し久しぶりだった。
「風呂、行ってくる」
アルフィーが荷物を置く。
「僕も」
フィオナも小さく頷いた。
――久しぶりの風呂は、気持ちよかった。湯に入った瞬間、体から力が抜ける。温かい。それだけなのに、ずっと張っていたものが少しずつほどけていく感じがした。
何日も歩いて。野宿をして。朝になったらまた歩いて。それが当たり前になっていた。だからこそ。
「……あったかい」
思わず声が出た。
風呂から出ると、近くの食堂に夕飯が用意されていた。大きな皿に焼いた肉。それから、野菜の煮込み。パンと、温かいスープ。
「……すごい」
僕は椅子に座った。
「これで三十クレスト?」
「そうだ」
向かいに座ったアルフィーが答える。
「安すぎない?」
「だから泊まったんだろ」
「うん」
フィオナも椅子に座る。いただきます、と三人で食事を始めた。肉を一口食べる。
「……おいしい」
柔らかい。香草の匂いがして、噛むほど味が出てくる。煮込みの野菜も、よく味が染みていた。
「……これは、うまいな」
アルフィーもそう言った。宿の主が少し離れたところで笑った。
「だろ?」
「聞いてた通りです」
「誰に聞いた?」
「町の人に」
「そうか。ありがたいねえ」
宿の主は嬉しそうに笑った。僕はスープを飲んだ。温かい。今日一日歩いた体に、じんわり染みていく。
「そういえば」
僕は昼間のことを思い出した。
「……牛飼いの人、面白かったな」
僕が言うと、アルフィーが顔を上げた。
「毎日違うって言ってた人か」
「うん」
「牛のこと、よく見てたな」
「そうなんだよ」
僕は昼間の牧場を思い出した。牛の声。広い草原。牛飼いが一頭ずつ見ていたこと。
「船長も、毎日川を見てるから分かるって言ってたよね」
「ああ」
「牛飼いの人もそうだったけど……毎日同じことをしてると、分かることが増えるんだなって」
アルフィーが少しだけ顔を上げる。
「牛飼いと船長か」
「うん」
僕はスープを飲んだ。
「なんか、すごいなって思って」
「何が?」
「毎日やってることが、その人の称号になってるみたいで」
アルフィーが少し考える。
「……それで?」
「それで?」
「ゼロは牛飼いになりたいのか?」
「……」
僕は止まった。少し考える。
「分からない」
正直に答えた。
「じゃあ、船長は?」
「それも分からない」
「そうか」
アルフィーは、それ以上聞かなかった。僕も、それ以上は答えられなかった。フィオナは黙って肉を食べている。
しばらく三人とも、無言で食事をしていた。宿の中には、他の客の話し声も聞こえる。笑い声。食器が触れる音。外を通る人の足音。なんだか、それだけで安心した。
「……二人は」
僕はふと聞いた。
「なりたいものとか、あるの?」
アルフィーの手が止まる。少しだけ考えて。
「……今はない」
「そっか」
フィオナを見る。
「フィオナは?」
「……分からない」
「そっか」
僕は小さく息を吐いた。
なんだろう。少しだけ安心した。自分だけじゃない。僕にはまだ、なりたいものが分からない。でも、二人も同じだった。それだけで、少しだけ気持ちが軽くなった。
「今日はもう休め」
アルフィーが言った。
「うん」
食事を終える。
部屋に戻ると、三つの布団が並んでいた。僕は布団に入る。柔らかい。何日かぶりのちゃんとした布団だった。
「……気持ちいい」
思わず呟く。隣では、アルフィーがもう横になっている。フィオナも布団に入った。部屋の明かりが消える。真っ暗になった。静かだった。宿の外から、風の音が少し聞こえる。
僕は目を閉じた。今日はもう寝よう。そう思った。
でも。なかなか眠れない。頭の中に、さっきの話が残っている。なりたいもの。僕は何になりたいんだろう。
目を開ける。天井は暗くて、何も見えない。
「……アルフィー」
「なんだ」
すぐに返事が返ってきた。
「まだ起きてた?」
「ああ。お前もか」
「うん」
少し間が空く。
「フィオナは?」
「……起きてる」
「やっぱり」
僕は少し笑った。三人とも、まだ眠っていなかった。
「ねえ」
「なんだ」
「さっきの話なんだけど」
アルフィーが黙っている。
「なりたいものって、どうやって決めるんだろう」
「知らん」
「そっか」
即答だった。でも、アルフィーらしい。
「フィオナは?」
「……分からない」
「そっか」
また静かになる。僕は布団の中で天井を見つめた。
「僕さ」
少し迷ってから、口を開く。
「何になりたいのか……まだ、よく分からないんだ」
記憶がない。昔の自分が何を考えていたのかも分からない。だから。今の自分が何をしたいのかも、分からない。
「旅人になったのも……」
そこで言葉が止まった。僕は続きを言わなかった。言う必要もない気がした。
「……今は、旅をしてる」
それだけ言った。
「うん」
フィオナが答える。
「でも、これから何をしたいのかは、まだ分からない」
「……うん」
「それって、変なのかな」
少しだけ間があった。
「……分からなくても、いいんじゃない?」
フィオナが言った。短い言葉だった。
「そうかな」
「……うん」
僕はその言葉を考えた。分からなくてもいい。そう言われると。少しだけ、肩の力が抜けた。
「探してる途中なんだろ」
アルフィーが言った。
「……」
探している途中。そう考えたことはなかった。何も決まっていない。何も分からない。そう思っていた。でも。まだ見つけていないだけなら。
「……そうだね」
僕は小さく答えた。
「探してる途中なのかもしれない」
「なら、それでいい」
アルフィーはそれだけ言った。
「うん」
また静かになる。今度は、さっきより少しだけ落ち着いていた。僕は目を閉じる。しばらくして。隣から、アルフィーの寝息が聞こえてきた。フィオナも静かになっている。
僕だけ、まだ眠れなかった。仕方なく、布団から出る。音を立てないように部屋を出た。廊下を歩いて、宿の外へ出る。夜の空気が、少し冷たかった。
僕は空を見上げた。星が出ている。たくさんの星が、暗い空に浮かんでいた。しばらく、そのまま見ていた。静かだった。
今日のことを思い返す。町に入った。知らない人と話した。歩いた。川を渡った。宿に泊まった。そして今、星を見ている。旅をしている。
僕は胸に手を添える。そこにある、自分の称号。――『旅人』
僕は、その言葉を頭の中で繰り返した。旅人。今の僕を表す称号。それは分かる。でも。僕は何をしたいんだろう。どこへ行きたいんだろう。まだ、分からない。
「……僕は、旅人だ」
小さく呟く。その言葉は、今の僕にはちゃんと馴染んでいた。でも。
「……それだけなのかな」
夜空を見上げる。ふと、西の森の方から吹いてきた夜風が、さっきより少しだけ冷たく肌を刺した気がした。明日もまた、知らない道が続いている。




