四十八話 『牛飼いの毎日』
町を出て、しばらく街道を歩いた。振り返ると、さっきまでいた町が少しずつ遠くなっている。前を見ると、道の向こうに広い牧草地が見えた。
「……あ」
僕は足を止めた。緑の草がずっと続いている。その中には、たくさんの牛がいた。
「牛……あの時見た牛だ」
「ゼロ、お前。牛とまで知り合いになってたのか」
「ち、ちがうよ!」
アルフィーが少しだけ笑った気がした。僕は牧草地の方を見る。
王都を出てから馬車に乗っていた時、遠くに見えた景色。あの時は、ただ牛がいると思っただけだった。でも今は違う。目の前にいる。
「……近くで見ると、大きいな」
「そうだな」
一頭の牛が僕の方を向いた。ゆっくりと近づいてくる。
「……」
僕は一歩下がった。牛はさらに一歩近づく。
「……アルフィー」
「何だ」
「これ、どうしたらいい?」
「近づいてみればいい」
「それだけ?」
「それ以外にあるか?」
アルフィーは普通に牛へ近づいて、その頭を軽く撫でた。牛は何事もなかったように草を食べ始める。
「……なんで平気なんだよ」
「別に何もしないだろ」
「そうだけど」
フィオナも少しだけ近づいて、牛を見上げた。
「……かわいい」
「え?」
「……かわいい」
「怖くないの?」
「……うん」
フィオナは牛の頭をそっと撫でる。牛は嫌がる様子もなく、そのまま草を食べていた。
「……僕より慣れてる」
「ゼロが臆病なだけだろ」
「アルフィーは黙ってて」
そんなやり取りをしていると、牧草地の奥から一人の男が歩いてきた。
「どうした?」
「あ、すみません」
僕は慌てて頭を下げた。
「牛を見てたら、つい」
「そうか」
男は笑って、牛たちの方を見る。
「好きなのか?」
「はい。というか、近くで見るのは初めてで」
「そうか。なら、もう少し見ていくか?」
「いいんですか?」
「ああ。逃げるようなもんでもないしな」
僕たちは牧草地の中へ入った。
近くで見ると、牛の鳴き声や草を食べる音まで聞こえてくる。風に乗って、土と草の匂いもする。さっきまで歩いていた街道とは、空気そのものが違った。
「ここって、毎日こうしてるんですか?」
「ああ。朝から晩までな」
「ずっと牛の世話を?」
「そうだ」
男は慣れた手つきで牛に餌をやる。
「餌をやって、水を替えて、具合が悪そうなやつがいれば見てやる。子牛が生まれたら、その世話もする」
「大変そうですね」
「まあな」
そう言いながら、男は楽しそうだった。僕は少し気になって、尋ねた。
「……あの、ここで働いてるんですか?」
「ああ」
「あの……あなたの称号って?」
男は少し考えるようにしてから答えた。
「『牛飼い』だ」
「牛飼い……」
僕はその言葉を繰り返した。やっぱり、そういう称号なんだ。
「せっかくだ。少しやってみるか?」
「何を?」
「乳搾りだ」
「僕が?」
「ああ」
教えてもらいながら、やってみる。
「……こう、ですか?」
「もう少し力を抜け」
「こう?」
「今度は弱すぎる」
「難しいな……」
横で見ていたフィオナが、ぽつりと言った。
「……下手」
「フィオナまで……」
アルフィーは腕を組んだまま、僕たちを見ている。
「アルフィーもやってみなよ」
「俺はいい」
「なんで?」
「向いてない」
「何それ」
牛飼いが声を上げて笑った。結局、少しだけ手伝わせてもらったあと、搾ったばかりの牛乳を飲ませてもらった。
「……おいしい」
冷たくて、ほんのり甘い。
「新鮮だからな」
僕はもう一口飲んだ。さっきまで目の前で草を食べていた牛から取れたものだと思うと、不思議な気分だった。
「毎日、同じことをしてるんですか?」
「ああ」
牛飼いは笑った。
「……飽きないんですか?」
聞いてから、少し失礼だったかもしれないと思った。でも、牛飼いは怒らなかった。
「毎日違うぞ」
「違う?」
「昨日まで元気だったやつが、今日は餌を食わないこともある。逆に、昨日は食べなかったやつが、今日は元気に食うこともある」
牛飼いは少し離れたところにいる子牛を見る。
「子牛だって、毎日少しずつ大きくなる。昨日できなかったことが、今日はできるようになってることもある」
「……」
牛飼いはそう言うと、少し寂しそうに目を伏せた。
「昨日まで元気だった奴が、朝起きたら冷たくなってることだってある。俺たちの仕事は、生かすことだけじゃねえ。見送ることも仕事だ」
僕は牛たちを見た。さっきまで、ただの牛の群れにしか見えなかった。でも、毎日ここにいるこの人には、一頭一頭が違って見えている。
どの牛が昨日餌を食べなかったのか。どの牛の調子が悪いのか。どの子牛が少し大きくなったのか。きっと、全部分かるんだ。
「……牛飼いって、いい称号ですね」
僕が言うと、牛飼いは少し驚いた顔をした。
「そうか?」
「はい」
「俺は牛を育ててるだけだぞ」
そう言って、牛飼いは笑った。
『牛飼い』。強そうな名前じゃない。誰かを倒せるわけでもない。それでも、この人にとっては、自分の毎日そのものなんだ。
朝起きて、牛を見て。餌をやって。病気になれば世話をして。子牛が生まれれば喜んで。また次の日を迎える。そんな毎日が積み重なって、この人の『牛飼い』になっている。
「……」
僕は自分の胸元に触れた。僕の『旅人』は、どうなんだろう。
「ゼロ?」
フィオナの声で我に返る。
「何?」
「行くよ」
「……うん」
僕はもう一度、牧草地を振り返った。牛たちは何も知らないように、今日も草を食べている。牛飼いは、その一頭一頭を見ている。
「ありがとうございました」
「おう。また来いよ、旅人」
「はい」
僕たちは街道へ戻った。歩きながら、僕は胸元の称号紋に触れる。『旅人』。僕はこれから、どんな毎日を積み重ねていくんだろう。




