《◆第二巻 旅人編》【プロローグ 旅の続き】 四十六話 『「旅人」という称号』
風が気持ちいい。馬車の荷台から身を乗り出すと、乾いた風がそのまま顔に当たる。
「……ちょっと寒いな」
朝だからかもしれない。でも、嫌な寒さじゃなかった。
僕はそのまま空を見上げる。青い。王都にいた時とは違う空だった。建物もない。人も少ない。遠くまで見渡しても、広い草原と、その先に続いている荒野しかない。
「ゼロ」
後ろから声が聞こえた。
「落ちるぞ」
アルフィーだった。
「分かってるよ」
そう言いながら、僕は少しだけ体を戻す。
「……でも、すごいな」
「何がだ」
「こんなに何もないところ、初めて見た」
「そうか」
それだけ言って、アルフィーは前を向く。相変わらずだ。でも、不思議と嫌じゃない。
少し離れたところでは、フィオナが外を見ていた。白い髪が風に揺れている。
「フィオナは、こういう場所来たことある?」
「……ない」
短い返事。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。フィオナはまた外を見る。僕も同じように前を向いた。
馬車がゆっくり進んでいく。僕たちは今、王都から離れていた。旅をするために。自分が何をしたいのか、それを見つけるために。
「……旅人、か」
胸元に手を当てる。そこには、僕が自分で選んだ称号がある。
旅人。昨日までの僕には、そんなものはなかった。虚人だった。何も持っていなかった。でも、今は違う。僕には、この先へ進むための道がある。
「なあ、ゼロ」
「ん?」
アルフィーが前を向いたまま言う。
「腹減ってるか」
「……ちょっと」
「そうか」
アルフィーはそれだけ言うと、荷物の中からパンを一つ取り出した。
「食え」
「いいの?」
「俺はいらん」
「ありがとう」
フィオナの方を見る。目が合うと、彼女は小さく首を横に振った。どうやら、いらないらしい。
アルフィーから受け取って、一口かじる。……少し硬い。でも、おいしい。
『旅人』の称号が胸にあるだけで、王都の隅で泥水をすすうように食べていたあの頃とは、パンの味まで違って聞こえる。世界が僕を歓迎しているような、不思議な温かさだった。
「……おいしい」
「そうか」
アルフィーはそれ以上何も言わない。
「ねえ、アルフィー」
「ん?」
「空白地帯の人たちって……大丈夫なの?」
「何がだ」
「アルフィー、ずっとあそこで食べ物を渡してたでしょ。今は僕たちと一緒に旅してるけど……」
「心配すんな」
アルフィーは前を向いたまま言った。
「しばらく持つくらいの食料は置いてきた」
「……そっか」
「俺がいなくても、すぐ困ることはない」
「よかった」
安心した。旅に出る前に、ちゃんとあの人たちのことを考えていたんだ。僕はパンを食べながら、なんとなく笑った。
こういう時間も、旅なのかもしれない。
何か大きなことが起きるわけじゃない。ただ歩いて。知らない景色を見て。知らない人に会って。その中から、自分が何をしたいのかを探す。
そう考えると、少しだけ楽しみになってくる。
「ねえ」
フィオナが前を見たまま口を開いた。
「何?」
「あれ」
指差した先に、小さな影が見えた。近づいてみると、そこには何頭もの牛がいた。
「牛だ」
「……見れば分かる」
アルフィーが言う。
「いや、そうだけど」
僕は少しだけ笑った。
そのまま馬車が進んでいく。牛の群れの近くには、何人かの人がいた。あの人たちも、称号を持っているんだろうか。持っているんだとしたら――
『牛飼い』
そんな称号なんだろうか。
僕はじっと眺めた。あの人たちは牛を育てて、毎日あそこで暮らして、きっとそれが当たり前なんだ。
僕にはまだ分からない。自分が何をしたいのか。だから、旅をする。いろんな人に会って。いろんなものを見て。いつか、自分の答えを見つける。そう決めたはずだった。
「……」
ふと、右手を見る。何もない。普通の手だ。それなのに。たまに、思い出す。称号を奪った時の感触を。
指先に力を込める。あの瞬間。相手の称号紋に触れた時。引き剥がした時。胸の奥へ、別の何かが流れ込んできたような感覚。
他人の人生を、この手で無理やり毟り取った時の――あの恐ろしいほどの力。背筋を駆け抜けた、熱い感覚。
「……」
僕は右手を握った。あれは、何だったんだろう。旅人になるために、僕は称号を奪った。勝つためだった。生きるためだった。それでも、あの感触だけは忘れられない。
「ゼロ?」
フィオナの声が聞こえる。
「……何でもない」
僕は右手を膝の上に置いた。そして、もう一度前を見る。
道はまだ続いている。この先に何があるのかは分からない。どんな人に会うのかも。どんな称号があるのかも。僕が何になりたいのかも。まだ、何も。
だからこそ。今は歩いてみようと思う。僕はまだ、自分が何者なのか分からない。でも――。この旅の先なら。いつか見つかる気がした。




