【エピローグ 光を目指して】 四十五話 『変えに行けばいい』
朝の光が瞼の隙間に差し込んでくる。僕はゆっくりと目を開けた。見慣れない天井だった。
昨日、生まれて初めて泊まった宿の部屋。そのことを思い出して、自然と小さく笑う。体を起こそうとして、そのままベッドの端から床へ落ちた。
「いたた……」
お尻をさすりながら立ち上がる。
「宿って、寝るの難しいな……」
昨日までの僕なら、こんなことで困る日が来るなんて思ってもみなかった。宿は、虚人が泊まれる場所じゃなかったからだ。
服についた埃を払いながら、胸へ手を当てる。そこには、昨日までなかった『旅人』の称号紋がある。夢じゃない。僕は、本当に『旅人』になったんだ。
部屋を出ると、向かいの扉もちょうど開いた。アルフィーが大きくあくびをしながら出てくる。
「……やっと起きたか」
そう言ってこっちを見ると、すぐに小さくため息をついた。
「まったく。宿なんて無駄遣いだ」
「えぇー……」
思わず声が漏れる。
「一回くらい、よくない?」
「よくねぇ」
アルフィーは腕を組んだ。
「屋根があるだけで一晩何十クレストも取られる。寝るだけだぞ」
「でも僕、一回も宿に泊まったことなかったんだよ?」
「それがなんだ」
「ずっと小屋だったし、外で寝ることも多かったし」
そう言うと、アルフィーは少しだけ視線を逸らした。
「それに――」
財布を開く。
「お金なら、あるし」
昨日の称号バトルで手に入れた硬貨が、小さく音を立てた。初めて、自分の力で稼いだお金だった。
しばらく黙っていたアルフィーが、小さく鼻を鳴らす。
「まあ……こんな時くらいは、いいか」
「ほんと?」
「初めて称号を取った祝いだ」
そう言って照れ隠しをするように頭をかいた。
「毎回泊まるなんて言い出したら止めるがな」
「言わないよ」
思わず笑う。
「お金なんて、すぐなくなっちゃうし」
「分かってんならいい」
そこへ、隣の部屋の扉が静かに開いた。フィオナだった。眠そうに目をこすりながら出てきて、僕たちを見る。
「……おはよ」
「お、おはよう!」
挨拶を返すと、フィオナは小さく頷いた。そして僕の胸元へ視線を向ける。
「……よかったね」
小さな声だった。
「ありがとう」
照れくさくて笑うと、フィオナはじっと僕の胸の称号紋を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「まだ、旅人には見えないけど」
「えっ、そ、そうかな……?」
せっかく手に入れたのに。急に不安になって自分の胸元を隠すように見つめ直す。
「……でも」
フィオナは顔を背けたまま、蚊の鳴くような声で続けた。
「前よりは、いいんじゃない」
「……っ」
フィオナはそれ以上何も言わない。ただ、ほんの少しだけ表情が緩んだ気がした。
「――さて」
アルフィーが伸びをする。
「せっかく金もあるんだ。朝飯くらいは食っていくか」
「賛成!」
僕は勢いよく頷いた。三人で宿を出る。
朝の王都は、昨日までと同じように賑わっていた。パンを焼く香り。屋台から立ち上る湯気。荷車を押す人たちの声。何も変わっていない。変わったのは、僕だけだった。
宿を出てしばらく歩く。門番の前を通りかかった時だった。
「あれ?」
門番がこっちを見て目を丸くする。
「お前、昨日の……」
すぐに思い出したように笑った。
「旅人になったんだってな」
「……はい」
「おめでとう。いい称号だ」
「あ、ありがとうございます……」
自然に言葉が返ってくる。
昨日までなら。虚人だった僕は、門の前で何度も止められていた。疑われて。見下されて。追い返されそうになったことだってある。でも今日は違う。
「いい、旅を」
門番は軽く手を振る。その一言だけだった。
それだけなのに。胸の奥が少しだけ熱くなる。昨日までなら、この門を通るだけで怖かった。今は、何も気にしなくていい。
「……行こう」
僕は小さく呟いた。
市場へ向かう。昨日までと同じ店が並んでいる。焼きたてのパンを並べる店主が、僕たちを見るなり笑顔になった。
「おっ、旅人さんじゃないか! 昨日はすごかったな」
僕は思わず立ち止まる。
「パン三つください」
「はいよ」
店主は慣れた手つきで袋へ詰める。そして一つ、小さな丸パンを追加で入れた。
「あれ?」
「祝いだ」
店主は笑う。
「サービスしとく」
「え……」
「その代わり、いつか面白い旅の話を聞かせてくれ」
「……はい!」
袋を受け取る。温かかった。焼きたてのパンも。その言葉も。
僕は財布を開く。革袋の中で、硬貨が小さく触れ合った。チャリン、と乾いた音が鳴る。その音に、思わず手が止まった。
「……すごい」
「どうした」
アルフィーが呆れたように僕を見る。
「僕、自分で稼いだお金を持ってる」
革袋の中で硬貨をそっと転がす。
「今までは誰かに恵んでもらうことしかできなかったから」
「……そうだったな」
「僕にも、働いて手に入れたものがあるんだ」
昨日の勝負。裏格闘場でのバトルとはいえ、正式な称号バトルだったからこそ、賞金が支払われた。決して大金じゃない。旅人としても、まだ駆け出しの額だ。それでも。自分で勝ち取ったお金だった。
僕は硬貨を一枚だけ取り出す。朝日に照らされて、小さく光った。
「……これが――」
自分の力で手に入れたもの。
「……夢みたいだ」
虚人だった頃には、想像もできなかった。
パンを買える。宿にも泊まれる。門を通るたびに疑われることもない。虚人ではなく、『旅人』と呼ばれる。
それだけのこと。本当に、それだけのことだった。それなのに、昨日まで灰色に見えていた世界は、少しだけ色づいて見えた。
僕は焼きたてのパンを一口かじった。温かい。昨日まで食べていたものと同じパンのはずなのに、不思議なくらい美味しかった。
アルフィーも黙ってパンをかじる。フィオナも小さく頬張る。三人で笑いながら歩く。昨日まで夢のようだった朝が、今は当たり前に目の前にあった。
パンを食べ終えたあとも、僕たちは王都をゆっくり歩いた。
石畳の道は朝の日差しを受けて明るく輝き、行き交う人々の表情もどこか穏やかだった。昨日までとは違う。そう思う場面は、歩くたびに増えていく。
道を譲ってくれる人がいる。露店の店主が「また来いよ」と手を振ってくれる。門番も、もう僕を怪しそうな目では見ない。
胸に刻まれた『旅人』の称号紋は、それだけで僕という人間を証明してくれるものだった。
嬉しかった。本当に嬉しかった。僕がずっと欲しかったものは、こういう当たり前だったのかもしれない。でも。
市場を離れ、細い路地へ入ると、その景色は少しずつ変わっていった。建物は古くなり、石畳にはひびが増える。漂ってくる匂いも、活気ある市場とはまるで違っていた。
いつもの空白地帯だった。
壁にもたれかかって座り込む老人。空腹を紛らわせるように眠る子ども。擦り切れた服のまま歩く人たち。いつもと同じ景色――。
僕は足を止めた。
「……何も、変わってない」
思わず漏れた声に、アルフィーは静かに答えた。
「そんな簡単に変わるもんじゃねぇよ」
その言葉に返事はできなかった。
変われたのは、僕だけだ。旅人になった。パンも買える。宿にも泊まれる。門も自由に通れる。だけど、この街は何も変わっていない。苦しい人は、今日も苦しいままだ。
その時だった。前から歩いてきた親子が、僕たちとすれ違う。幼い男の子が、フィオナを見上げた。
「あっ……」
何かを言いかけたその手を、母親が慌てて引いた。
「見ちゃだめ」
小さな声だった。
「悪魔だから」
親子はそのまま足早に去っていく。フィオナは何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ目を伏せた。まるで、聞き慣れた言葉だったかのように。その姿が、胸に刺さる。
僕は拳を握り締めた。旅人になった。でも。フィオナは、まだ悪魔と呼ばれる。今の僕の称号じゃ、何も変えられない。
青空の向こうに、王城がそびえ立っていた。王都のどこからでも見える、大きな城。あの場所に、この国を動かす人たちがいる。
今の僕には、あまりにも遠かった。旅人。ようやく手に入れた称号。昨日までの僕なら、それだけで十分だったはずだ。なのに。
何かが足りない。何かが、違う気がする。空白地帯は変わらない。フィオナは、まだ悪魔と呼ばれる。世界は、何も変わっていない。なら――。
変えに行けばいい。もっと強くなって。もっと高い場所へ行って。いつか、この世界を。
「おい」
アルフィーが前を向いたまま声をかける。
「置いてくぞ」
「あっ」
気づけば二人は少し先を歩いていた。フィオナが振り返る。何も言わない。だけど、その瞳は僕を待っていた。自然と笑みがこぼれる。
「今行く!」
僕は駆け出した。二人の隣へ並ぶ。まだ世界は変わらない。空白地帯も。フィオナに向けられる視線も。王城の遠さも。何一つ変わってはいない。それでも――。
僕はもう立ち止まらない。一歩ずつでも前へ進む。アルフィーと。フィオナと。三人で。この世界のどこかにある光を目指して。
***
第一巻、完。




