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四十四話 『人生を受け継ぐということ』

「僕は……」


 気づけば声に出していた。涙でぐしゃぐしゃになったまま、『旅人』の称号紋を両手で掴む。


「僕は……!」


 指先に力を込める。


「旅人になるんだ!!」


 称号紋が激しく脈打つ。まるで拒絶しているかのように。


「うああああああああっ!!」


 全身の力を振り絞る。


 そして――。ブチッと、何かが引き剥がれる感触が、僕の掌を震わせた。眩い緑の光が弾ける。『旅人』の称号紋が、ゆっくりと僕の胸へ吸い込まれていく。


 その瞬間。胸の奥で、何本もの道が一本につながるような感覚が走った。世界が、少しだけ広く見えた。


 ジュールは静かに息を吐き、優しく笑う。


「……おめでとう」


 その笑顔は、負けた人の笑顔じゃなかった。


「ゼロくん」


 一度だけ、僕の名前を呼ぶ。


「君の勝ちだ」


 会場が静まり返る。誰も動かない。誰も声を出せない。目の前で起きたことを、誰も理解できていなかった。やがて、誰かが震える声で叫ぶ。


「……旅人が」


「負けた……?」


 その一言が火種になった。


「おおおおおおおおお!!」


 歓声が爆発する。


「マジかよ!!」


「本当に奪いやがった!!」


「ゼロ!」


「新しい旅人だ!!」


 地鳴りのような歓声の向こうで、フィオナは小さく息を吐いた。アルフィーは腕を組んだまま、不器用に口元だけを少し緩めていた。


 僕は歓声なんて、もう何も聞こえていなかった。胸の奥に残っていたのは――ジュールが歩き続けた、あまりにも長い旅路の重さだけだった。


 眩しかった光が、ゆっくりと消えていく。僕の胸へ吸い込まれた『旅人』の称号紋とは対照的に、ジュールの胸元からは、最後の光が静かに抜け落ちていった。

 

 そこには、もう何もない。さっきまで確かにあった『旅人』の証は、跡形もなく消えていた。


 ……終わった。僕は勝った。なのに。嬉しいなんて気持ちは、どこにもなかった。


「……ごめんなさい」


 気づけば、そんな言葉しか出てこなかった。ジュールは、小さく笑う。


「謝らなくていいよ」


 穏やかな声だった。


「君が奪わなくても、いつか誰かが奪ってた」


 僕は何も言えなかった。それでもジュールは、どこか肩の荷が下りたような顔で続ける。


「だから」


 ゆっくりと僕を見る。


「君で良かった」


「……っ」


 また涙があふれた。止めようとしても止まらない。僕は、この人から人生を奪ってしまった。そう思っていた。


 だけど、ジュールは本当に後悔しているようには見えなかった。むしろ、どこか満たされたような笑顔だった。


「ぼくはね」


 ジュールは静かに空を見上げる。


「もう旅は十分なんだ」


 風が、マントの裾を揺らした。


「君に会う前から、そろそろ終わりかなって思ってた」


 その声には、寂しさも未練もなかった。長い道を歩き切った人だけが持つ、静かな安堵があった。


「ぼくの旅は」


 一度だけ息を吸う。


「ここで終わる」


 その一言が、胸に深く沈んでいく。終わる。旅人ジュールの旅が。何千日も歩き続けた、一人の旅人の人生が。


「でも」


 ジュールは僕を見る。真っ直ぐに。


「ぼくの人生が君の旅の始まりになるなら。旅人として、こんなに幸せな終着点はないよ」


 ジュールは優しく笑った。僕は何も言えなかった。言葉にした瞬間、全部崩れてしまいそうだった。


 ジュールは立ち上がる。もう『旅人』じゃない。それでも、その立ち姿は少しも小さく見えなかった。


「称号はなくなったけどさ」


 照れくさそうに頭をかく。


「自由まで奪われたわけじゃない」


 そう言って笑う。


「だから明日からも歩くよ。今度は、ただのぼくとして」


 そして、少しだけ子供のような無邪気な顔になる。


「野草のスープも、まだまだ研究しなきゃいけないしね」


 思わず笑ってしまった。涙でぐしゃぐしゃのまま。それでも笑った。あの雪山で飲んだ、苦くて温かいスープ。あれも、この人の旅があったから生まれた味なんだ。


 歓声が、また少しずつ戻ってくる。誰もが僕を見ていた。新しい旅人になった、僕を。でも僕は、自分の胸元なんて見られなかった。


 そこにある『旅人』の称号紋は、能力なんかじゃない。ジュールが笑い、泣き、迷い、それでも歩き続けた人生そのものだった。


 称号紋を得るということは、誰かの力を手に入れることじゃなかった。誰かの人生を、受け継ぐことだった。

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