43話 『何千もの孤独の先で』
指先が、震えていた。自分でも分かるくらい。もう少し。あと少しで届く。
「……っ」
僕の指先が称号紋に触れた。――その瞬間だった。
「な――っ!?」
視界が、ぐにゃりと歪んで反転した。
肌をじりじりと焼く砂漠の熱。かと思えば、次の瞬間には骨の髄まで凍りつくような吹雪が吹き荒れる。
視界が明滅するたびに、知らない国の知らない景色、知らない言葉、見たこともない無数の人々の顔が、頭の中に直接殴り込んでくる。
「……これって、もしかして……」
世界が壊れたんじゃない。ジュールの歩んできた世界が、僕の体の中にもの凄い勢いで流れ込んできているんだ。
『いい天気だね』
不意に、自分の声が聞こえた。僕だ。僕が笑っている。
『雨は降らねぇな』
アルフィーがぶっきらぼうに返す。
『……風が気持ちいい』
フィオナが小さく呟く。その横で、ジュールは笑っていた。
あの日の記憶。僕の――いや、ジュールが見ていた、僕たちの記憶だ。楽しかったあの日の。
けれど、その温もりを噛み締める間もなく、記憶はまた激しく引き裂かれる。
そこは、ただ白一色に染まった、逃げ場のない雪山だった。
気がつくと、僕は消えていた。アルフィーも、フィオナもいない。そこにいるのは、ジュールただ一人だ。
不思議なことに、ジュールの感覚が、皮膚の痛みを通じてそのまま伝わってくる。寒い。痛い。もう、足の感覚はとうに消えている。自分がどこに向かって、何歩歩いたかも分からない。
「あ……」
限界だった。叫ぼうとしても喉が凍りついて声にならない。そもそも、ここで叫んだところで、返事をしてくれる人なんて世界に一人もいない。
「……なん……で……」
あまりの孤独に心が潰れそうになった時、突然、視界にあの真っ青な空が、小川のせせらぎが、ありありと蘇る。
『……おいしい!』
僕だ。見覚えのある木製の器。
『悪くねぇ』
アルフィーもいる。
『……おかわり、ある?』
フィオナが器を覗いている。ジュールが困ったように笑いながら言う。
『今度はもっと美味しく作るよ』
みんなで笑った。ランタン・スープは、思い出すだけで胸が痛くなるほど温かかった。だけど、その温かさは、目の前の冷酷な現実をさらに際立たせるためだけの残酷な引き立て役だった。
一瞬で、また暗闇へ突き落とされる。
「……うっ、寒っ……」
夜だ。焚き火の光すらない、深い闇。ジュールは震える手で、小さな鍋を抱えていた。野草だけで作ったスープ。味なんてほとんどしない。苦くて、冷たい。
それでも、生き延びるために、彼は両手で器を握り締めながら一口ずつ喉に流し込んでいる。ガチガチと歯を鳴らし、泣きそうな顔で、自分を引き留めるように。
『……まだ、歩ける』
誰に聞かせるでもなく。ただ、自分に言い聞かせるように。
『まだ……終われない……』
目を瞑りかけた、その瞬間。また景色が変わった。
街だ。門番が笑っている。商人が手を振る。子供たちが抱きつく。
『ジュール!』
みんなが笑う。僕も笑う。
でも、その笑顔の裏側には、何百日、何千日と、誰もいない道をただ一人で歩き続けた日々があった。飢えた日も。眠れなかった夜も。病気で倒れた朝も。
誰にも助けを呼べなかった旅。誰にも褒められない旅。それでも。ただ、一人で歩き続けた人生。
さっきまで闘技場を揺るがしていた、あの街の人たちの愛に満ちた大歓声は、ジュールがこうして一人ずつ、一人ずつ出会って、血を流しながら助けて、積み重ねてきた時間の重さそのものだったんだ。
「これが……」
震える声を絞り出す。
「これが、本当の『旅人』――」
涙が溢れる。僕が見ていたのは、ほんの一瞬だけだった。笑っているジュールしか、僕は知らなかった。
でも、その笑顔は。何千もの孤独の先で、彼がボロボロになりながら、ようやく手に入れた笑顔だった。
「……僕なんかが」
涙が止まらなかった。こんな人生を。こんな重さを。僕なんかが、背負えるはずがない。
「無理だ……」
僕には旅なんてできない。知らない国へ一人で行ったこともない。吹雪の中を何日も歩いたこともない。飢えて倒れかけたことも。誰にも助けを求められない夜を越えたことも。何一つ。僕は何も知らない。
目の前で静かに輝く『旅人』の称号紋を見つめる。
これは能力なんかじゃない。ジュールが歩いてきた人生そのものだ。一人で。傷ついて。飢えて。それでも歩き続けた証。
「そんなもの……僕が奪っていいわけない」
思わず手を引っ込める。すると、観客席から静かな声が聞こえた。
「……死にたいの?」
「――っ!」
フィオナだった。いつもの小さな声なのに、その一言だけは胸に突き刺さる。
振り返る。その瞬間だけ、フィオナの姿がひどく冷たく見えた。まるで悪魔のように。――奪え。そう囁かれているような気がした。
心臓が激しく鳴る。……だめだ。わかってる。
一歩後ずさった、その時――。頭の中へ、もう一つの声が割り込んできた。
『そいつの胸ぐら掴んで、可能性を毟り取る』
いつかの夜の、エドの声だ。その言葉と同時に、今まで味わってきたものが一気によみがえる。
虚人だからと門前払いされたこと。虚人だから笑われたこと。虚人だから信じてもらえなかったこと。虚人だから百クレスト払えと言われたこと。虚人だから――。
「……もう」
拳が震える。
「嫌なんだ」
虚人のまま終わるなんて。何者にもなれないまま生きるなんて。そんな人生は。




