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四十一話 『泥だらけの虚人』

 歓声は、ますます大きくなっていく。でも、その声はもう、僕には何一つ届いていなかった。


「――ぐはっ!」


 何度目かも分からない転倒だった。膝をつく。呼吸が乱れる。腕は鉛のように重い。頬を伝う血が、顎から地面へ落ちた。


「はぁ……っ、はぁ……」


 立たなきゃ。そう思うだけで、体が動かない。


「いいぞー! ジュール!」


「やっぱ旅人はすげえな!」


「虚人なんか、やっちまえ!」


 歓声が降り注ぐ。さっきまで耳障りだったその声が、今は違う意味で胸を締めつけていた。


 誰もが、ジュールを見ている。


 市場で野菜を売っていた商人。城門で笑っていた門番。酒を酌み交わした旅人たち。きっと、旅の途中で出会った人たちなんだろう。


 みんなが笑っている。みんなが手を振っている。みんなが、ジュールを応援している。


「……やっぱり、すごいな」


 思わず笑いそうになる。戦い方だけじゃない。歩いてきた時間が違う。出会ってきた人の数が違う。積み重ねてきたものが違う。


 ジュールは必要とされている。行く先々で誰かに名前を呼ばれる。帰ってくれば、こんなにも歓迎される。


 ――僕なんかとは、違う。胸の奥が、じわりと痛んだ。


「僕は……」


 何者でもない。誰の記憶にも残らない。誰にも待たれていない。ただの――虚人だ。


 立ち上がろうとした膝が、小さく震えた。


「ゼロ!!」


 その声だけが、歓声を切り裂いた。思わず顔を上げる。


 観客席で、アルフィーが身を乗り出していた。あの、寡黙なアルフィーが大声を出すなんて初めてだった。会場が、しんと静まる。


「お前は何だ!」


 その問いだけが、闘技場に響いた。


「……虚人だよ」


 かすれた声で答える。


「そうだ」


 アルフィーは頷き、再び口を開く。


「だったら、それを――」


「無理だったんだ」


 弱々しい声が喉から漏れる。アルフィーは何か言おうとして、結局そのまま口を閉じた。


「武器も能力も、何も持ってない僕が、旅人と戦うなんて」


 僕が言うと、アルフィーは鋭く言い放った。


「考えろ」


「え……?」


「虚人にできることは何だ」


「……っ」


 それだけだった。答えは返ってこない。


 ジュールが動く。杖が横薙ぎに迫る。転がるように避ける。頭の横を風が裂いた。


 ――何だ。虚人にできること。考えろ。何が違う……。


 再びジュールが地図を繰り出す。また、方向がわからなくなる。


 焦りと絶望でパニックになりかけたその時、頭の奥で、いつかのジュールの声が鮮明に蘇った。


『ぼくは、ゼロくんが少し羨ましい』


『だって、まだ何者でもないから』


 あの日、僕を気遣うように笑っていたジュールの顔が浮かぶ。


『まだ何にも決まってない。まだ何にも染まってない』


『だから、これから何にでもなれる』


 ――そうだ。あの時、ジュールは確かにそう言った。何にも染まっていない。何にも縛られていない。


「――あ」


 その時、ふと思った。ジュールは旅人だ。道を渡る。地図を使う。旅人として戦っている。最初の二人だってそうだ。水汲みは、水を。荷運びは、荷を使っていた。


 でも、僕は違う。何もない。称号がない。だから――何にも縛られていない。石でもいい。砂でもいい。拳でもいい。使っちゃいけないものなんてない。


「何者でもないから……」


 息を吸う。胸の奥で、何かが弾けた。


「何にでもなれる!」


 転がっていた石を掴む。狙うのは顔じゃない。ジュールの足元へ向けて、全力で叩きつけた。


 キンッ、と鋭く跳ねた石が、不規則な軌道でジュールの鼻先をかすめる。


「――なるほど」


 ジュールがわずかに体勢を崩した一瞬、僕はすでに滑り込むようにその懐へ飛び込んでいた。


「うおおおおおっ!!」


 低く這ったまま、両手で掴んだ砂をジュールの顔面へ思い切りぶちまける。


「っ……!」


 ザッと激しい砂煙が舞い、ジュールの視界を強引に塞ぐ。その端正な眉がひそめられた刹那、僕は残った全力を右拳に込め、下から突き上げるように放った。


 カキンッ――と衝突音が響き渡る。初めて、ジュールの杖に拳が届いた。衝撃が腕に返ってくる。


 でも、捉えた。頭上を埋め尽くしていた歓声が、嘘のように一瞬で消える。


「……止めた?」


「今の、防いだぞ……!?」


 僕は息を切らしながら、喉の奥で笑った。


 旅人なら道を使う。水汲みなら水を使う。荷運びなら荷を使う。


 でも僕は違う。石でも、砂でも、瓦礫でも、使えるものは全部使う。何も持っていないからこそ、何にも縛られない。


 ジュールが、嬉しそうに口元を歪めた。


「そうだ」


 杖に凄まじい力がこもる。


「それが君だ」


 その言葉と同時に、僕も地面を踏み抜いた。押し返す。今度は、ただ攻められる側じゃない。僕の執念が、旅人の力を正面から押し戻していた。


「……なんだ、あいつ」


「虚人だろ?」


「戦い方がおかしい!」


 静まり返った客席から、動揺のような声が漏れる。そうだ。これは――何者でもない僕虚人の。泥だらけの戦い方だ。

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