四十話 『一本の張り詰めた道』
その時、ジュールが静かに片手を挙げた。
たったそれだけの動作で、あちこちから飛んでいた野次が、波が引くように収まっていく。誰もが『旅人』の次の一動を待っている。
ジュールは僕を真っ直ぐに見つめ、小さく頷いた。それを合図に変えるように、司会が喉を震わせる。
「――始めっ!!」
司会が高く手を振り上げる。歓声が爆発する。僕は息を吸い、一歩、前へ踏み出した。その刹那、視界からジュールの姿が掻き消える。
「……っ!」
右か。反射的に振り向く。いない。左。後ろ。あれ? ――ギチ、と頭上からかすかな繊維の軋む音が聞こえた。
見上げる。そこには、信じられない光景があった。
壁から壁へと渡された、一本のたるんだロープ。その上にジュールは立っていた。古びたマントを鳥の翼のように大きく広げ、まるで世界を背負うような不敵な佇まいで。
「旅人はね。道があれば、どこへでも行けるんだ」
ジュールが踏み込んだ瞬間、たるんだロープは鉄の棒のように張り詰めた。残されたのは、鋭く風を切る音だけ。
「っ、速――!」
追えない。どこへ行くのか分からない。気づいた時には、もう背後だった。杖が脇腹へ突き込まれる。
「ぐっ!」
息が詰まる。体がくの字に折れる。振り返って拳を振る。空振り。ジュールはもう離れている。
距離が、一瞬で開く。ジュールは、瓦礫を踏み、壁を蹴り、崩れた柱を渡っていく。まるで、この闘技場全部が一本の道になっているかのようだった。
「遅いよ」
声は近いのに、姿が見えない。……どこだ。どこにいる。辺りを見回した、その時だった。コン、と乾いた音が響く。ジュールの杖の先が、床石を軽く突いた。
一枚の石畳が、わずかに沈む。ほんの数ミリ。それだけだった。僕は気にせず踏み込む。次の瞬間。ガコンッ、と足元の石畳が崩れた。
「うわっ!?」
完全に体勢を崩した僕は、そのまま前へ投げ出され、瓦礫へ叩きつけられる。
「がはっ……!」
肺の空気が全部抜けた。ジュールは静かに杖を肩へ担ぐ。
「旅ではね。足元が一番怖いんだよ」
悔しさを押し殺して、僕は無理やり立ち上がった。このまま何もできずに終わるのだけは嫌だ。その一心で、一歩を踏み出す。
「……っ、あああぁぁ!!」
そのまま、ジュールの懐へ死に物狂いで飛び込んだ。全体重を乗せた拳を、ジュールの顔面へ向けて突き出す。
その瞬間、ジュールの手が大きく動いた。彼が懐から引き抜いたのは、古びた一枚の地図だった。それを無造作に、足元へ投げ捨てる。
バサァッ――と、地面に触れた瞬間、羊皮紙は生き物のように急速にのたうち、闘技場の瓦礫を瞬く間に飲み込んで覆い尽くした。
「な、なんだ――!?」
固まる僕の目の前で、地図に描かれた無数の等高線や知らない国の地名が、淡い光を放ちながら立体的に浮かび上がってきた。
一瞬にして、闘技場の地面が、見渡す限り見知らぬ大地へと変貌する。
「辻繋ぎの境界図クロスロード・チャート。世界中のあらゆる辻(分岐点)を繋ぎ合わせた地図さ。さあ、ここから抜け出せるかな?」
ジュールの声が、どこか遠くから響く。ただの幻影だ。無視して突き進めばいい。そう思って足を前に出そうとした。
だけど、立体的に交差する無数の道を前にした瞬間、まるで本物の崖っぷちに立たされたかのように、脳が強烈な目眩を訴えて足元がすくみ上がる。
「――!?」
右が崖か、左が底なしか。目の前の空間そのものを歪められたような異常な距離感に、僕は完全に足がすくみ、どこへ進めばいいのか分からなくなって拳を止めてしまった。
「そんなんじゃ、まだまだ旅はできないよ」
向こうのほうから、ジュールの声が聞こえる。
ハッとして強引に地図を払いのけようとした、その瞬間だった。パシンッ――と、乾いた破裂音が響く。
「――っ!?」
頬に火を押し当てられたような激痛が裂いた。思わず顔を押さえる。指の隙間から生温かい液体が溢れてきた。……血だ。
視線を上げる。ジュールは遠くで、ナイフを静かに鞘へ戻していた。
その背後で、切り裂かれたロープが、まるで巨大な蛇がのたうつように凄まじい軌道を描いて虚空を跳ねている。
「張りすぎたロープは危ない」
ジュールは涼しい顔で言う。
「切れると、思わぬところまで跳ねる」
切れた結び目から外れた鉄の留め具が、地面を転がって止まった。――あれが……僕を切ったのか。
距離があった。届くはずがない。そう思い込んでいたのは僕だけだ。ジュールは、この闘技場の瓦礫も、ロープも、最初からすべて自分の手足のように把握していた。
ジュールはまた歩き出す。迷いがない。崩れた地面も。傾いた柱も。足場にならないはずの瓦礫も。全部、自分の庭だとでもいうように渡っていく。僕だけが迷っていた。
「……っ」
この闘技場は、僕にはただの瓦礫だった。でもジュールには、世界中へ続く一本の道に見えている。
「そうだ!」
「やれーっ!」
歓声が降り注ぐ。
どこから殴られたのかも分からない。何度立ち上がっても、次の瞬間には転ばされる。拳は届かない。足は追いつかない。気づけば、また地面へ叩きつけられていた。




