38話 『力ごと汲み干された男』
中に入った瞬間、音が一気に押し寄せてきた。叫び声。笑い声。足音。何かを叩く音。いろんな音が混ざっていて、方向が分からない。
「……っ、ここって――」
視界が開ける。そこは闘技場という感じじゃなかった。
きれいに区切られた場所も、観客席もない。崩れかけた建物の間、空き地、足場。それらが無理やりつながって、人で埋まっている。屋根の上にも、人。窓にも、人。落ちそうな場所にも、人。
中央だけが、やけに明るい。雑に吊るされた光がそこだけを切り取っている。古びた看板には『裏格闘場』の文字。
地面のあちこちには、今まで行われていた激しい戦闘の名残か、生々しい傷跡や血痕が残っていた。
「――興行を続けるぞ! 次のバトルだ!」
どこからか声が跳ねる。同時に地鳴りのような歓声が起こる。
「涸らしの『水汲み』と、鉄骨の『荷運び』、前へ!」
その言葉だけが、やけに鋭く落ちた。
「今のって……称号?」
僕が聞くと、ジュールは短く答えた。
「そうさ」
二人が前に出る。
まず目に入ったのは荷運びの男だった。
腕は太く、肩も厚い。服の上からでも力が入っているのが分かる。背中には木枠の荷物。箱や袋が積み上がり、縄と金具で無理やり縛られていた。一歩動くだけで、金属がぶつかる音がする。
もう一人は水汲みの男だった。体は細い。荷物を運ぶようには見えない。肩に古い木桶を下げている。中には水が半分ほど入っていて、歩くたびに揺れている。
開始の合図は短かった。
「これより、称号干渉戦を開始する。始め!」
上から声が落ちる。荷運びの男が先に動く。地面が沈むような踏み込みだった。そのまま腕を振る。
「押し潰す!」
低い声が飛ぶ。
水汲みの男は少しだけ横に動く。それだけで攻撃を外す。そして桶をわずかに傾けた。一筋の濁った水が、糸を引くように地面へこぼれ落ちる。パシャ、と冷たい音が響いた。
荷運びの男が鼻で笑う。
「どうした。手元が狂ったか?」
さらに踏み込む。今度は距離ごと潰すような動きだった。
水汲みの男はまた少しだけ動く。避け方はほとんど変わらない。そしてもう一度、水を落とす。ただ、それだけ。攻撃を繰り出そうとする様子はない。
荷運びの男は、その撒かれた水を勢いよくビシャン、と踏みつけながら肉薄しようとした。その瞬間だった。
「……は?」
男の口から短い吐息が漏れる。
すぐに踏み込み直そうとした男の体が、びくん、と妙な震え方をした。丸太のようだった腕の筋肉から、一瞬にして、力がカクンと抜けたような奇妙な動き。
荷運びの男は自分の両手を見つめ、ガチガチと歯を鳴らしながら言った。
「……何だ、今の。急に、力が……」
水汲みの男は何も言わない。桶を持ったまま立っている。
荷運びの男は頭を振ると、焦りをかき消すようにもう一度力任せに踏み込んだ。またしても、地面に広がった水をビシャン、と踏み抜く。
「あ、あが……っ!?」
今度は、明確な悲鳴だった。水を踏むたびに、男の肩や腕の筋肉が、まるで風船の空気が抜けたかのように、急にだらしなく萎んでいく。
「ふざけんな……! 何をしやがった……!」
声が荒くなる。そのまま腕を振るが、力が入らないのかただ空を切るだけだった。踏み込みのバランスが完全に崩れている。荷運びの男は一歩下がる。初めて自分から距離を取った。
その瞬間、ドサ、と締まりのない音がして男が膝をついた。自分の背負っている荷物の重さに、ただ耐えかねたような不恰好な倒れ方だった。
メキメキと嫌な音を立てて木枠が崩れ、男の体が地面に押し潰される。
水汲みの男は桶を持ち上げた。中の水は――男の体力を吸い上げたかのように、どろりと怪しく増えていた。
「これも一種の『水汲み』さ。……あんたの力、いい具合に汲み干せたよ」
荷運びの男はそのまま倒れたままだった。もう動かない。
僕はようやく分かった。あの水に触れた時点で、全部奪われていたんだ。勝った理由も、負けた理由も、そこにあった。
倒れたまま動かない荷運びの男を、水汲みの男は見下ろした。桶を軽く揺らす。水面が、ゆっくりと波打った。
その瞬間だった。荷運びの男の胸元に、光の模様が浮かび上がる。
「……あれ、何だろう……」
初めて見たその光る模様に、思わず声が出た。それは、だんだんと形がはっきりしてくる。
「称号紋さ」
ジュールが胸元を押さえて言った。
「言うなれば、称号バッジみたいなものだよ」
重なった箱の影、締め付ける縄、積み上がる重さ。それらが一つに絡まり合い、記号のように焼き付いている。――『荷運び』。なぜかそう読めてしまう。
男の胸元の称号紋が一度だけ強く脈打った。それを見た水汲みの男が、一歩踏み込む。
手が、称号紋に触れた。引き剥がすような動きではなかった。まるでそこに置かれていたものを自然に持ち上げるかのように、静かに掴み取る。
指先が触れた瞬間、光の模様がまるで染みのように、水汲みの男の胸へズブズブと吸い込まれていく。
やがて、荷運びの男はゆっくりと起き上がる。だけど、どこか安定感がない。まるで、自分の体の扱い方を忘れたかのみたいに、ふらつく。
「……あれ?」
声も軽い。背中を見る。そこにあったはずの荷物はない。さっきまで怒りや焦りで歪んでいた顔から、一瞬で表情が消えた。自分が何をしていたのかすら、思い出せないようだった。
一方、水汲みの男はその場に立っていた。何も言わない。ただ、自分の胸元を一度だけ確かめるように見た。僕は思わず声を出した。
「……どうなったの、これ」
ジュールは少しだけ間を置いてから、水汲み男の方を見た。そして静かに言う。
「奪ったんだよ」
「……奪う?」
僕が聞き返すと、ジュールは顎で男を指した。
「さっきまで彼は『水汲み』だった。でも今は違う」
水汲みの男はゆっくりと荷を持ち上げる。その動きに、さっきまでの迷いはない。ジュールが続ける。
「彼は、新しい称号を手に入れた。『荷運び』を毟り取ったんだ」
僕は思わず息をのんだ。
「じゃあ……それが、新しい称号?」
ジュールは短くうなずく。
「そうさ」
男は何も言わないまま、肩の力を抜く。その姿はさっきとは違っていた。軽いのに、妙に安定している。
その言葉で、点と点がつながる。これは勝ったとか負けたとかじゃない。立場そのものが、入れ替わる戦いなんだ。
「じゃあ……奪われた方は?」
僕がそう言うと、ジュールは迷いなく答えた。
「虚人だよ」
よく見ると、元々荷運びだった男の胸元から、さっきまであったはずの称号紋が、完全に消えている。そこだけ不自然な空白。
……ああやって、虚人になるのか。僕は思わず息を止めた。
虚人になった男は、もう誰とも目を合わせないまま、何事もなかったかのように歩き出す。ジュールが、その背中を見ながら言う。
「かわいそうだけど、それがこの世界のルールだから」
「……」
それ以上、何も言えなかった。
僕はまだ、さっきのが頭から離れなかった。称号を奪う。奪われれば、虚人になる。そんなことが、本当に起きる。目の前で見たはずなのに、まだ信じきれない。




