【第七章 奪う者、奪われる者】 三十七話 『引かれた一本の戻れない線』
あれから数日がたった。気づけば、頭の中は旅人のことばかりだった。僕はジュールを探して街へ出た。
街は相変わらず騒がしかった。石畳の上を行き交う人の声が、絶え間なく重なっている。その中で、ふと視線が止まる。
「やぁ、また会ったね」
古びたマントに大きな荷物。変わらない笑顔。ジュールだった。
「……ジュールさん!」
思わず名前が出る。彼は軽く手を上げるだけで、まるで昨日の続きのようにそこにいた。
「元気そうだね」
何気ないその一言が、妙に遠く感じた。あの夜から、頭の中に残っている言葉がある。――旅人。それだけが、ずっと離れなかった。僕は一度息を吸う。
「……あの!」
「?」
「僕、旅人になりたいです」
言った瞬間、胸の奥が強く鳴った。ジュールは一瞬だけ目を丸くする。
「……そうか」
でも、すぐにいつもの柔らかい笑みに戻った。
「ゼロくんにも、ちゃんと夢ができたんだね」
その言い方が、わずかに引っかかる。夢。そんな軽いものじゃない。でも、言葉にはできなかった。
少しの沈黙。通りの喧騒だけが、流れていく。ジュールはその沈黙を見て、それから小さく息を吐いた。
「いいよ」
あまりにも自然な声。
「受ける」
「……え?」
思わず聞き返す。ジュールは肩の荷物を軽く揺らしながら続ける。
「バトルのことだよ。旅人になりたいんでしょ?」
僕は言葉を失う。まだ何も準備もしていない。何も始まってすらいないはずなのに。
それでも、その言葉で何かが確かに決まった気がした。ジュールは変わらず笑っている。
「……いいんですか?」
「うん。僕も君と戦ってみたいと思ってたんだ」
通りの音は変わらないまま続いている。だけどその中に一本だけ、戻れない線が引かれていた。僕はその向こうを見ていた。
ジュールの言葉が落ちたあと、しばらく誰も何も言わなかった。
「じゃあ、行こうか」
最初に口を開いたのはジュールだった。
「ちょうど近くに、戦える場所がある」
そう言うと、そのまま歩き出す。僕たちはそれに続くしかなかった。
街の喧騒を抜けてしばらく進むと、巨大な建物が見えてくる。高い壁に囲まれた円形の構造。上へ上へと積み上がる観客席。中には人がたくさんいるようだった。
「ここだよ」
ジュールが軽く顎で示す。
「国が管理する決闘施設、公認格付場だ」
門の前には受付があり、数人の係員が立っていた。中へ入ろうとした瞬間、すぐに止められる。
「登録をお願いします」
淡々とした声だった。
「旅人。ジュール」
ジュールは、慣れた様子で称号と名前を告げる。
「では次。お相手の方も、登録をお願いします」
「……虚人。ゼロです」
僕も短く答える。すると、係員はわずかに表情を変えた。
「当アリーナでは、虚人の方のみ利用料が別になります」
「……へ?」
思わず声が出る。提示された金額を見て、言葉を失った。
「ひゃ……百クレスト!?」
到底、払える額じゃない。というより、僕は一クレストも持っていない。
「……っ、そんな大金……」
「お支払いいただけないようでしたら、お引き取りください」
「ちょ、ちょっと待ってください! なんで……なんで、虚人だけがお金を払わなきゃいけないんですか!」
係員は変わらない声で続ける。
「制度は平等です。『価値ある登録者』にとっては。 お支払いいただけないようでしたら、お引き取りください」
その言葉が、頭に引っかかった。平等。どこが。
「……そんなのおかしいだろ!」
つい、声を荒げてしまう。でも受付の係員は表情を変えない。
「規則に基づいています」
それだけ。その一言で、会話は終わった。
「……」
背後から、ざわつく人の声が聞こえてくる。
「いやいや」
「虚人は無理だろ」
「最初から来るなって話だ」
何気ない悪意が、空気に混じっている。
アルフィーが小さく息を吐いた。フィオナは何も言わない。ただ、じっと受付を見ている。
ジュールはしばらく黙っていたあと、受付の方へ軽く手を上げた。
「なら、別の場所でやろう」
「……別の場所?」
「来ればわかるよ」
ジュールはそれだけ言うと、歩き出した。僕は少し遅れて、その背中を追った。
大通りの屋台からは香ばしい肉の匂いが漂い、客たちは頬張りながら笑っている。その賑やかさを横目で見ながら、僕は小さくため息をついた。
「……でもさ」
誰に言うでもなくボソッと呟く。
「なんでわざわざお金のない虚人から、お金を取ろうとするのかな」
思い出すだけで、じわじわと腹が立ってくる。
「あの受付の称号、『取り立て屋』か『ゆすり屋』だと思う」
僕がフンと鼻を鳴らすと、隣を歩くアルフィーは「気にするな」とでも言うように、小さく息を吐いた。フィオナは何も言わない。ただ、ちょっとだけ気の毒そうな目でこっちを見ている。
「あそこは規則第一だから」
前を歩くジュールが、振り返らずに苦笑混じりの声を出す。
「でもさ、なんで虚人だけ……」
「虚人は虚人のままでいてほしいのかもね」
ジュールが少しだけ声のトーンを下げて言った。
「なんで?」
「それは僕にもわからないけど。でも、何か事情があるんだと思うよ」
「……」
街の中心から外れるほど、音が変わっていく。人の声は減っているのに、湿ったようなざわつきだけが濃くなっていく。
「……あの、ほんとにこっちで合ってるんですか」
僕が聞くと、ジュールは振り返らずに答えた。
「合ってるよ」
それ以上は言わない。やがて大通りの明かりが途切れて、建物の隙間に入った。道というより、壁と壁の間に押し込まれたような通路だった。奥に進むほど、空気が重くなる。
「ここだ」
そう言うと、ジュールは止まった。
「旅の途中で見つけてね」
目の前に、入口らしきものはない。ただ壊れた壁の裂け目のような隙間から、光と音が漏れているだけだった。




