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三十四話 『何にでもなれる自由』

「旅人……」


 僕は思わずその言葉を繰り返す。初めて聞いた称号だった。


「じゃあ、いろんな場所へ行ってきたんですか?」


「うん。あっちこっちね」


 青年は楽しそうに頷いた。


「砂漠も歩いたし、雪山にも登った。海も渡ったし、この国よりずっと東にある国にも行ったことがあるよ」


「へぇ、すごい……!」


 思わず声が大きくなる。僕は、この街以外どこも知らない。世界には、そんなにたくさんの場所があるんだ。


「そうだ」


 青年はふと思い出したように言った。


「みんなは、これからどこへ行くの?」


「あ、えっと僕たちは……」


「街だ」


 僕が言う前に、アルフィーが答える。


「へぇ、そうなんだ」


 青年は嬉しそうに笑った。


「奇遇だね。実はぼくも街へ向かうところなんだ。せっかくだし、一緒に行かない?」


 僕とフィオナが頷くと、アルフィーは少しだけ青年を見つめる。


「……好きにしろ」


「ありがとう」


 青年は笑って頭を下げた。


「ぼくはジュール。よろしく」


「僕はゼロ」


「……フィオナ」


「アルフィーだ」


 僕たちはゆっくり街道を歩き始めた。ジュールは、本当に話が尽きない人だった。


「砂漠って、本当に砂しかないんですか?」


「昼は暑いけど、夜は驚くほど寒いよ。星なんて、空から降ってきそうなくらい綺麗なんだ」


「へぇ……!」


「……雪山はどう、だった?」


 珍しく、フィオナが口を開く。


「やっぱり寒い?」


「寒いよ。でも雪を踏む音が気持ちいいんだ。誰も歩いてない場所を歩くと、自分が世界で最初の一人になった気分になる」


「……そうなんだ」


 フィオナは少しだけ目を細めた。


「あとはね、海もすごいよ」


 ジュールは笑う。


「水平線しか見えない景色は、最初は怖かった。でも夕焼けは、本当に綺麗だったな」


「見てみたいなぁ……」


 つい声が漏れる。


「いつか行けばいいさ」


 その言葉は、とても当たり前みたいに聞こえた。まるで、歩けば世界中どこへでも行けるんだとでも言うように。


 四人で街道を歩いていると、少し前で白髪の老人がきょろきょろと辺りを見回していた。


「ふむ……おかしいなぁ」


 何度も道標と地図を見比べては、首を傾げている。ジュールは足を止めた。


「どうかしました?」


「ああ、それがね」


 老人は困ったように笑う。


「この橋へ行きたいんじゃが、どうも道を間違えたみたいでのぉ」


 ジュールは老人の地図を受け取る。


「……巡礼橋《じゅんれいばし》ですね。それだと、この道じゃないです」


 そう言って、少し先の分かれ道を指差す。


「巡礼橋へ行くなら、あっちです。途中で大きな樫の木がありますから、その先を右へ曲がれば着きますよ」


「そうか……あぁ、そうだったな!」


 老人はぱっと顔を明るくした。


「いやぁ、ありがとう! 本当に助かった」


「お気をつけて」


 老人が何度も頭を下げながら去っていく。その背中を見送っていると、老人がふと立ち止まった。


「……ああ、そうだ」


 振り返った老人が、橋のある方角を見る。


「もし巡礼橋を渡るなら、気をつけなされ」


「何かあるんですか?」


 僕が尋ねると、老人は少しだけ困ったように笑った。


「いや……橋そのものは、何もないんだがな」


 そう言って、老人はまた歩き出した。


「ただ、あの橋には……昔の人間の、色んなものが残っているから」


「……?」


 意味が分からず首を傾げる。けれど老人は、それ以上何も言わなかった。


 老人と別れると、僕はジュールに話しかける。


「ジュールさん、道までわかるんですね」


 ジュールは笑った。


「旅人だからね。初めて来た場所でも、目印を見る癖があるんだ」


「へぇ……」


 なるほど、と頷く。そんな覚え方があるんだ。


 昼頃。街へ着く前に、小川の近くで休憩することになった。


「少し早いけど、お昼にしようか」


 ジュールはそう言うと、近くの草むらへ歩いていく。しゃがみ込んで、葉っぱを見ては摘み、また別の草はそのまま残している。気になって聞いてみる。


「何してるんですか?」


「食べられる草を探してるんだよ」


「えっ」


 思わず足元を見る。


「これ全部、雑草ですよね?」


「そうだよ」


 ジュールは笑いながら葉を一枚見せた。


「これは苦いから食べない」


 次に別の葉を摘む。


「こっちは香りがいい」


 さらに黄色い花を指差す。


「これはスープに入れると甘みが出るんだ」


「もしかして、全部見分けられるんですか?」


「まあ、大体は」


「すごい……」


「はは、大したことないよ」


 そう言って肩をすくめた。その後、小さな鍋に水を入れ、野草を刻んで火にかける。


「……あっちゃー」


「どうしたんですか?」


「塩持ってくるの忘れたみたい」


「え?」


「まぁ、いいか。素材の味ってことで」


「え、ええぇ……」


 しばらくすると、爽やかな香りがふわっと広がった。


「はい、できた」


「えっ、もう?」


「旅路を照らす灯火のスープ。旅人の間では『ランタン・スープ』って呼ばれてるんだ」


 木の器を受け取り、一口飲む。


「……おいしい!」


 思わず声が出た。草なんて苦いだけだと思っていた。でも優しい味がして、体が温まる。


「すごい……これ、本当に道端に生えてた草なんですよね?」


「うん」


 ジュールは笑う。


「旅人は食べ物がない場所も歩くからね」


 アルフィーは黙ってスープを飲み干すと、一言。


「悪くねぇ」


 その短い言葉に、ジュールは照れくさそうに頭をかいた。


 ふと、隣で黙って飲んでいたフィオナが、器の中をじっと見つめる。


「……おかわり、ある?」


 ジュールは少し困ったように笑った。


「あいにく、もうないんだ。でも今度見つけたら、もっと美味しい作り方を教えるよ」


 フィオナは少しだけ残念そうに器を見つめた。ジュールは笑う。


「旅はね。同じ景色も、同じ料理も二度とないから面白いんだ。だから次は、今日とは違う味を作るよ」


 僕は空を見上げる。世界は、僕が思っていたより、ずっと広い。旅って、そういうものなんだ。


 僕は、まだ温かい木の器を両手で包んだまま、ジュールの横顔を見た。


「あの」


「ん?」


「旅人って……強いんですか?」


 ジュールは少しだけ目を丸くしたあと、ははっと笑った。


「全然」


「えっ……」


「剣士みたいに戦えるわけじゃないし、魔法使いみたいな派手な力もないよ」


 肩をすくめて笑う。


「お金持ちでもないし、偉くもない」


「じゃあ……」


 僕は首を傾げた。


「ジュールさんは、どうして旅人に?」


 ジュールは空を見上げた。木々の隙間から青空が広がり、風が枝葉を揺らしている。


「自由だからね」


 その一言は、とても穏やかだった。


「旅人は、自分で生き方を決められるんだ」


 そう言って、ジュールは遠くの街道へ目を向ける。


「好きな場所へ行ける。好きな景色を見られる。好きな人と出会える。好きな自分にも、きっと出会える」


 僕は黙って耳を傾ける。ジュールは静かに言った。


「誰かに決められた道を歩く人生より、ぼくは自分で選んだ道を歩く方が好きなんだ」


 風が吹く。草が揺れ、小川の水面がきらりと光った。


「……自由、か」


 思わず、その言葉を口にする。そういえば、アルフィーが言っていた。


『称号は手段だ』


 その意味が、少しだけ分かった気がした。きっと、旅人の称号は強くなるためのものじゃない。自分の歩きたい道を歩くためのものなんだ。


 野草のスープを飲み終えると、小川のせせらぎが静かに響いていた。ジュールは木の器を洗いながら、ふと僕の方を見る。


「ゼロくんはさ。将来、何になりたいとか考えてる?」


 突然の質問だった。


「えっ……」


 僕は少し考えてから、小さく首を振る。


「分からないです。……称号は欲しいです。でも……何になればいいのかは、全然」


 ジュールは「そっか」と頷いた。


「それって、素敵なことだよ」


「……え?」


 ジュールは優しく笑って言った。


「ぼくは、ゼロくんが少し羨ましい」


「ぼくが……ですか?」


 思わず声が裏返る。


「なんでですか」


「だって、まだ何者でもないから」


 その言葉に、思わず苦笑する。


「いや……何者でもないっていうか。僕、虚人ですし」


 自分で言っていて、胸の奥が少し痛んだ。ここに来てから、何度もそう呼ばれてきた言葉だった。でも、ジュールは首を横に振る。


「だからだよ。まだ何にも染まってない。何にも縛られてない」


 木漏れ日が、水面で揺れる。


「だから、これから何にでもなれる」


 穏やかな声だった。


「剣士になってもいい。商人になってもいい。旅人になったっていい。自分で選べる」


 一拍置いて、ジュールは空を見上げた。


「それって、とっても自由なことなんだ」


 自由。その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。


「でも……」


 僕は小さく笑う。


「僕は、ずっと虚人って呼ばれてきました。何にもできないって」


 ジュールの方を見る。


「だから……僕は、ジュールさんが羨ましいです。いろんな場所へ行って。いろんな人に会って。自由に生きてて。僕も、そんなふうになれたらなって思います」


 ジュールは少しだけ照れくさそうに笑った。


「そうかな」


 風が吹く。草がさらさらと揺れる。


「ゼロくんなら、自分の道を見つけられるよ。きっと、ぼくなんかより面白い人生になる」


 その言葉に、何も返せなかった。


 誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。虚人だから無理だと笑われたことはあっても。何にでもなれると言われたことなんて、一度もなかった。


 胸の奥が、不思議なくらい温かかった。

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