三十三話 『風が気持ちいい朝に』
支度を終えた僕たちは、小屋を出た。朝の空気はまだひんやりしていて、木漏れ日が優しく地面を照らしている。
「いい天気だね」
僕が何気なく言うと、アルフィーは空を一度見上げる。
「雨は降らないな」
「……それだけ?」
「それだけだ」
「もうちょっとこう……気持ちのいい朝だなぁ、とかさ」
「思ってる」
「言わないんだ」
「今言った」
「え?」
「気持ちのいい朝だ」
「……それ、今言っただけだよね?」
思わず笑う。そんなやり取りをしていると、少し後ろから小さな声が聞こえた。
「……風、気持ちいい」
振り返る。フィオナが空を見上げていた。僕はなんだか少し嬉しくなって笑う。フィオナが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの」
「いや、フィオナがそういうこと言うの、珍しいなって」
「そう?」
「うん」
フィオナは少しだけ考えるように黙り込む。
「……今たまたま言いたくなっただけ」
「そっか」
また三人で歩き出す。
街へ続く道には、荷車を引く人や、商人たちの姿が見え始めていた。いつもと変わらない、穏やかな朝。……そう思っていた。
「お前ら、いい加減にしろ!」
どこからか、大きな怒鳴り声。
「あー、もう何言ってんのか全然分からねぇ!」
街道の少し先で、大勢の人が集まっていた。
「なんだろう」
僕は足を止める。アルフィーも騒ぎの方を見て小さく息を吐いた。
「面倒事だな」
人だかりの向こうでは、商人らしき男が必死に身振り手振りしながら怒鳴っていた。
その向かいには、大きな荷物を背負った、見慣れない服装の男たちが三人。彼らは困ったように何かを話している。
「……ん?」
僕は少し気になった。
「あの人たち……何て言ってるんだ?」
彼らの口から聞こえてくるのは、聞いたこともない響きの言葉だった。
「ヴァレス! ミーナ!」
「シェーナ! ネト!」
必死に身振りを交えながら何かを伝えようとしている。
「だから分かんねぇって!」
商人の男が苛ついた様子で言う。
「誰かこいつらの言葉が分かるやつはいねぇのか!」
人が集まり、騒ぎはますます大きくなっていく。
「外国の言葉なんて分かるわけねぇだろ」
「困ったな……」
周りにいた人たちは顔を見合わせるばかり。わかる人は誰もいないようだ。
「もういい! 帰ってくれ!」
商人の男が頭を抱えた、その時だった。
「――どうかしたんですか?」
穏やかな声。振り向くと、人だかりの後ろに一人の青年が立っていた。
癖のある明るい栗色の髪。古びたマントを羽織り、大きな荷物を背負っている。その姿は、どこか旅慣れた雰囲気をまとっていた。
それでも、その顔には人懐っこさが滲み出ている。
「ちょっと失礼」
青年が歩み寄ると、集まっていた人たちが自然と道を空ける。青年はそのまま、異国の男たちの前へ迷いのない足取りで歩いていった。
「サルヴァ・ネト、ミーナ?」
青年の口から溢れ出たのは、まるで歌を紡ぐかのような、あまりにも流麗な響きだった。発音することすら難しそうな異国の言葉を、彼は完璧に操っている。
異国の男たちの表情がぱっと明るくなった。
「オル! ラステ・ヴァル、ノーヴァ!」
「シェル、シェル!」
三人は一斉に頷きながら、安心したように街の方を指差した。青年も笑顔で頷く。
「なるほど」
そして商人へ振り返った。
「この人たち、この荷物を預かってくれる店を探してたみたいです」
「え?」
「市場を見て回りたいけど、大荷物を持ったままじゃ歩けないからって」
「えっ……そうなのか?」
商人はぽかんと口を開ける。
「商品を指差してたから、てっきり買いたいのかと思って……」
商人は頭を掻いた。
「なんだ、俺の勘違いか……」
青年は再び異国の男たちへ向き直る。
「ラステ・ノヴァ。エルト、シェーナ」
男たちは安心したように笑い、「オル!」と元気よく頷いた。
「ありがとうって言ってます」
「いや、こっちこそ悪かった!」
商人も照れくさそうに笑う。さっきまで怒鳴り声が飛び交っていた場所には、もう苦笑いしか残っていなかった。
「助かったよ! ありがとな、兄ちゃん!」
周りからも感心したような声が上がる。青年は少し照れくさそうに笑った。
「大したことじゃないですよ。旅をしてると、自然と覚えるものなので」
「すごい……」
思わず声が漏れる。青年がこっちを見る。ふと目が合った。
「ん?」
柔らかい笑顔に、どこか安心する。
「あ、あの!」
僕は吸い寄せられるように、思い切って尋ねた。
「あなたの称号って……?」
青年は少しだけ目を丸くしたあと、背中の大きな荷物をぽん、と叩いた。
「ぼくかい?」
そして、いつものことのように笑う。朝の光を背負ったその姿は、まるで世界そのものを旅してきた人のように見えた。
「旅人さ」
青年はそう言って笑った。その一言は、不思議なくらい胸に残った。




