【第六章 旅をする者】 三十二話 『悪魔の顔のトースト』
朝、小鳥の鳴き声で目が覚めた。
目を開けると、台所ではフィオナが朝食を作っている。白い髪を後ろでひとつに束ね、エプロン姿で黙々とフライパンを動かしていた。小屋の中に、香ばしい匂いが広がっている。
「おはよう」
声をかけると、フィオナは振り返る。
「……おはよう」
挨拶して、また朝食作りへ戻っていく。
あの日から、数日が経っていた。フィオナは結局、小屋で一緒に暮らすようになった。相変わらず口数は少ないし、表情もほとんど変わらない。でも、こうして自然に朝食を作ってくれるようになっていた。
少しして、小屋の入り口の布が開く。
「起きてたか」
夜から仕事へ行っていたアルフィーが戻ってきた。
「おかえり、アルフィー」
「おう」
相変わらず短いやり取りだけだった。三人とも、まだ家族のように仲がいいわけじゃない。でも、同じ小屋で朝を迎えることは、もう当たり前になりつつあった。
「できたよ」
フィオナが皿を運んでくる。焼きたてのトーストだった。
「……え?」
一瞬、固まる。焦げ目が……笑っている顔に見える。もう一度見ても、角の生えた悪魔の顔だった。
「……」
思わず隣を見る。アルフィーも同じように、皿のトーストを見つめたまま固まっていた。僕のと同じ、禍々しい顔の焦げ目がついている。
「二人とも、どうしたの?」
フィオナが首をかしげる。
「……いや」
アルフィーが呟く。僕も深く頷く。
「なんでもないよ」
見間違い。うん、見間違いだ。そう思ってパンを持ち上げる。
──バサッ、と微かに羽ばたきのような音がした。トーストの影が、一瞬だけ黒い羽の形に広がった。
「うわっ……!」
思わず手が止まる。でも次の瞬間には、ただの焼きたてのトーストに戻っていた。
「……」
僕は瞬きを繰り返す。もう、影に羽なんてない。ただ、焦げ目はばっちり悪魔のままだ。僕はたまらず、隣のアルフィーにそっとにじり寄り、声を潜めた。
「……ねぇ、アルフィー」
「なんだ」
「これ、食べても大丈夫かな」
「さあな」
アルフィーもトーストを睨みつけたまま、地声の低さでこそこそと返す。
「悪魔になったりしない?」
「なったら笑う」
その時だった。
「なに?」
フィオナが顔をしかめる。
「っ……! いや!」
僕は慌てて姿勢を正し、無理やり笑みを浮かべる。
「お、美味しそうだなって……ね、アルフィー?」
「……」
アルフィーも黙ったまま頷き、パンを手に取る。
「気のせいだ」
「……そう、だよね」
僕も苦笑しながら頷いた。たぶん、ただの気のせい。そういうことにしておこう。
「早く食べないと冷めるよ」
そう言って、フィオナは何事もなかったようにトーストを頬張る。僕もアルフィーも顔を見合わせ、小さく肩をすくめてからパンを口に運んだ。
朝食を食べ終えると、フィオナは静かに皿を重ね、そのまま井戸へ向かって歩いていった。洗い物をするらしい。
僕は椅子にもたれ、小さく息を吐く。外では風が木々を揺らし、小鳥の鳴き声が聞こえていた。
「ゼロ」
不意に、アルフィーが口を開く。
「お前、これからどうするんだ」
「え?」
思わず聞き返す。アルフィーは椅子へ腰掛けたまま、腕を組んでいた。
「ずっと虚人のままでいるつもりか?」
「……」
言葉に詰まる。そんなつもりはない。虚人のままでいいなんて、一度も思ったことはなかった。でも。
「……分からない」
それが正直な答えだった。
「称号は欲しい。でも、何になればいいのかは……」
そこまで言って、口を閉じる。本当に、何も思いつかなかった。アルフィーが小さく息を吐く。
「称号は手段だ」
「……」
「目的がないなら、振り回される」
その一言が、胸に引っかかった。今まで僕は、称号が欲しいとばかり思っていた。でも、それを手に入れて何がしたいのか。そこまでは、一度も考えたことがなかった。
「……」
しばらくして、洗い終えた皿を抱えたフィオナが小屋へ戻ってくる。僕たちの会話を聞いていたのか、何も言わず席へ座った。
小屋の中へ、しばらく静かな時間が流れる。やがて僕は、小さく頭をかいた。
「……とりあえず、街にでも行ってみるよ。何か見つかるかもしれないし」
「そうか」
アルフィーは短く言うと、何でもないことのように椅子から立ち上がった。上着を手に取り、肩にかける。
「じゃあ、支度しろ」
「え? アルフィーも行くの?」
「俺だけじゃねぇよ」
アルフィーが顎で示す先――そこではフィオナが黒いフードを被り、静かにこっちを見ていた。
二人の様子に、僕は思わずパチパチと瞬きをする。
「……うん、行こう」
胸が少し温かくなるのを感じながら、僕は立ち上がった。




