三十話 『悪魔の濡れ衣』
少女だったものは何も言わない。ただ、血のような赤い瞳だけが、冷徹に僕を凝視している。
「ま……まさか……」
気がつけば、呟いていた。
「本当に……悪魔なの……?」
そんなこと、あるわけないと、目の前の現実を否定したかった。でも、彼女から放たれる圧倒的な闇の気配が、僕の身体を恐怖で縛り付ける。
ゾクりと背中に何かが走った、その瞬間。彼女の指先から、黒く鋭い爪が嫌な音を立てて急速に伸びた。
そして――それが、僕の視界を斜めに切り裂くようにして振り下ろされる。
「――っ!?」
咄嗟に腕で顔をかばう。その瞬間、誰かに腕を強く掴まれた。
「おい!」
「……!」
「うなされてるぞ」
聞き慣れた声だった。はっと目を開ける。目の前には、アルフィーの顔があった。
「……っ」
荒く息をつく。心臓が嫌なくらい速く脈打っている。窓の外は、まだ薄暗い。夜が明けきる前の、静かな朝だった。
「うわ言で何か叫んでたぞ」
アルフィーは僕の腕から手を離し、背負った銃の位置を直す。
「……大丈夫そうだな。仕事に行ってくる」
それだけ言うと、小屋の布を開けそのまま外へ出ていった。僕は毛布の上に座ったまま、自分の腕を見つめた。
「……夢」
そう呟いても、さっき見た赤い瞳だけは、まだ瞼の裏に焼き付いたままだった。
毛布を握る自分の手が、まだかすかに震えている。悪夢を振り払うように体を起こした、その時だった。
「大変だ!」
叫び声。小屋の隙間から外を除く。
「子供が消えたぞ!」
「本当か!?」
「朝から姿が見えねぇらしい!」
次々と慌ただしい声が飛び交う。僕は思わず顔を上げた。
「一体、何が……」
胸の奥がざわつく。嫌な予感がした。慌てて飛び起き、小屋の布をめくる。外では、集落中の人たちが一つの方向を見ながら騒いでいた。
「やっぱり悪魔の仕業だ!」
誰かが叫ぶ。
「昨日も外をうろついてたじゃねぇか!」
「あいつしかいねぇ」
「子供をさらったんだ!」
その言葉に、周りの人たちも口々に頷く。
「最初から怪しかったんだ!」
「やっぱり、ろくなもんじゃねぇ」
「だから言っただろ! あの悪魔は危険だって」
証拠なんて何もない。それでも、その場にいた全員が、それを当たり前のように信じていた。
「……そんなわけ……」
信じられなかった。昨日、一緒に歩いた少女の姿が頭に浮かぶ。
助けてくれたお礼を、小さな声で言ってくれた。不器用な優しさ。あの子が、本当にそんなことをするだろうか。
その時だった。
「悪魔が街で見つかったらしい!」
「騎士団が追ってるぞ!」
「逃がすな!」
その一言で、人々が一斉に動き出す。胸が激しく鳴った。――昨夜の夢。黒い翼。赤い瞳。嫌な予感だけが、胸の中で膨らんでいく。
「……あの子が、そんなことするはず……」
そう思いながらも、脳裏にあのすべてを切り裂くような黒い爪がよぎる。本当に、あれはただの夢だったんだろうか。あの子は本当に、ただの普通の少女なのか……? それとも――。
いや、そんなわけない。昨日、あの子は僕に言ったんだ。「ありがとう」って。
「……そんなの、信じられるか」
心臓が大きく脈打つ。気づけば、僕は街へ向かって駆け出していた。街へ続く道を、息を切らしながら走る。
「はぁっ……はぁっ……」
胸騒ぎが止まらない。昨日見た夢。黒い翼。赤い瞳。嫌な予感だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
「――だれかぁ!」
街外れの方から叫び声が聞こえてくる。
「たすけてぇ!」
「……!」
子供だ。もしかして、さらわれた子供……? 僕は声の方へ駆け出した。
古びた倉庫が並ぶ人気のない路地。そこで、一人の小さな男の子が座り込んで泣いていた。
「いやだぁ……!」
その前には、三人の男たち。見覚えがあった。
「……あいつら!」
前に路地裏で、僕を襲ってきた盗賊だ。
「こいつ、子供のくせに金持ってるぞ」
盗賊の一人が男の子から袋を奪い取る。男の子は必死に奪い返そうとする。
「おとなしくしろ!」
「暴れるんじゃねぇ!」
盗賊のたちが男の子の腕を乱暴に掴む。その時だった。
「……その子を離して」
静かな声が響く。男たちの後ろに――白い髪の少女が立っていた。
「なんだ?」
盗賊たちが振り向く。
「お前、あんときの悪魔じゃねぇか」
「はっ、ちょうどいい」
一人がナイフを抜いた。
「まとめて始末してやる」
「……」
少女は逃げない。子供を庇うように一歩前へ出る。
「離す気は――ない……みたいね」
「うるせぇなぁ!」
盗賊がナイフを振り下ろす。
「ガキがゴタゴタ言ってんじゃ……」
「――っ!」
その瞬間だった。少女の赤い瞳が、冷たく、深く、光った。彼女の足元から、どろりとした黒い影が這い上がる。そして、一瞬で鉄の盾のように硬化した。
「なっ……!?」
振り下ろされたナイフが、その黒い質量に弾かれ、キィィンと耳を劈くような硬質な金属音を立てた。盗賊が驚いて後ずさる。
「なんだ今の……!」
少女自身も驚いたように、自分の手を見つめている。――だけど、それだけだった。影はまるで最初から幻だったかのように、一瞬で霧へ還っていく。
「……」
次の瞬間。
「ば……化け物が!」
盗賊の三人が一斉に飛びかかった。もう、彼女の体は変化しない。今度こそ、刺される――。
考えるより先に、僕の喉から割れんばかりの叫びが飛び出していた。
「おーい!!」
「――!?」
盗賊たちの視線が集まる。
「お前……あん時の虚人か」
そのうちの一人が、ナイフを向けて一歩踏み出す。
「黙らないと――」
「子供がいるぞーー!!」
叫ぶ。
「ここだーー!!」
もう一度。路地の向こうで、人の話し声が止まる。
「……今の声……?」
「向こうだ!」
足音が近づいてくる。盗賊たちが舌打ちする。
「くそっ」
「覚えてろよ!」
三人は路地裏へ駆け込み、そのままどこかに行ってしまった。




