【第一章 称号の国】 三話 『金髪の門導士』
――虚人。
門番の口から出たその言葉だけが、はっきりと耳に残った。意味は分からない。聞いたこともない言葉だった。だけど、そのたった三文字で周囲の空気が変わったことだけは分かった。
「虚人だってよ」
「マジかよ……」
「本当にいるんだな」
そんな声が聞こえた。その声には驚きと、警戒みたいな色を感じた。どうしてそんな反応をされているのか分からない。僕はただ、自分のことを知らないだけなのに。
門番はしばらく僕を見ていた。まるで何かを確かめているみたいに。
「身分証はあるか」
相変わらず低い声。
「……ないです」
「所属は」
「わかりません」
「住んでいた場所は」
言葉に詰まる。考えても、何も出てこない。暗闇より前の記憶が、本当に何一つなかった。
「……覚えてないんです。ほんとに、何も……」
小さく答える。門番が呆れたように息を吐く。
「おい、まだかよ」
「列止まってるぞ」
「早くしろって」
後ろから不満そうな声が聞こえる。
耳が痛い。振り返れない。たくさんの視線が背中に刺さっているのがわかる。何か悪いことをしたわけじゃないのに、この場にいちゃいけないような気がしてくる。
門番の二人が顔を見合わせた。なんだよ。まだ何かあるのかよ。
「確認する」
一人の男がそう言った瞬間、門の表面が淡く光った。
「前へ出ろ」
「え……?」
「いいから、そこに立て」
言われるまま、門のすぐ前まで歩く。どうせ確認なんてしたところで、僕には称号なんてないのに。
近くで見ると、門はさらに巨大だった。見上げても上まではよく見えない。古い石で作られているはずなのに、どこか生き物のような不気味な気配がする。
「そのまま動くな」
そう言われた直後だった。足元に光が浮かんだ。
「っ……!?」
思わず息を呑む。
細い線が地面を這うように広がって、円を描いた。白い光が足元から膝の辺りまでゆっくり昇ってくる。
まさか、僕にも何かの称号が……? あとは、緑色に光れば――。
みんな、その光を見ていた。数秒。いや、もっと長かったかもしれない。でも、何も起こらなかった。光は弱くなって、すぐに消えた。
門番が眉をひそめる。
「称号反応なし」
隣の男が続ける。
「登録履歴なし」
「所属記録なし」
淡々とした口調。まるで最初から分かっていたことを確認しただけみたいだ。
門番が腕を組む。
「虚人で間違いないな」
その瞬間、また周囲が騒がしくなる。
「やっぱりか」
「なんで虚人がこんなところにいるんだよ」
「面倒だな……」
胸がざわつく。理由は分からない。でも、その言葉が良い意味じゃないことだけは分かる。門番と目が合う。
「入場は認められん」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……え?」
「ブランディア王国では、虚人の単独入場は禁止されている」
淡々とした声。ようやく意味を理解した。
「そんな……」
思わず門の向こうを見る。街がある。人がいる。さっきまで列に並んでいた人たちは、みんな普通に中へ入っていった。入れないのは、僕だけだ。
「僕はただ、中に入りたいだけで……」
「規則だ」
門番は即座に言った。
「称号を持たない者には保証がない」
「保証……?」
「身元も、所属も、責任もだ」
次々に出てくる硬い言葉に理解が追いつかない。ただ一つだけ分かる。僕は、中へ入れてもらえない。
「どいてくれ。次がつかえている」
後ろから不満げな声が飛んでくる。
「おい、まだかよー」
「時間の無駄だ」
「早く退かせろよ!」
喉の奥が苦い。どうすればいいんだよ。なんとかここまで歩いてきた。やっと人がいる場所に辿り着いた。なのに――。
門の向こうは、思ったよりずっと遠かった。
「……っ」
門の称号システムについてはよくわからない。ただ、このままだと入れない。
「お願いします」
勝手に言葉が出る。
「僕、本当に何も分からなくて」
門番は答えない。
「行く場所も、ないんです」
「……」
「なんとか、ここまで歩いて来たんです」
自分でも何を言っているのか分からない。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。この中に入らないと、僕を待っているのはきっと、死一択だ。
門番がめんどくさそうにため息をつく。
「事情は知らん」
返ってきた声は変わらず硬かった。
「規則は規則だ」
「そんな……」
「どけ」
後ろから不満そうな声が飛んでくる。
「早くしろって」
「迷惑なんだよ!」
思考が回らない。どうすればいいのか分からない。ここまで来たのに。やっと人のいる場所を見つけたのに。
「……お願いします」
もう一度だけ。
「中に――」
「駄目だ。これ以上邪魔をするなら、強制的に――」
まずい、掴まれる。覚悟した、その瞬間だった。
「おいおいおい」
横から男の声。
「ちょっと待てって」
軽い声だった。人混みの向こうから、一人の男が歩いてくる。
目を引く金髪。年は二十代くらい。肩から落ちかけた長い外套。首元には金具のついた革紐。腰には短い杖のようなものと、鍵にも見える金属具がいくつか揺れている。
騎士みたいな威圧感はない。かといって、魔導師みたいな怪しい雰囲気でもない。どっちかというと、街中をふらふら歩いていそうな遊び人って言った方がしっくりくる。
「わりぃ。そいつ、俺の連れなんだ」
そう言って、男は僕の肩に腕を回した。
「……えっと、あの」
連れ? どういうことだ? 会ったこともない人なのに。門番が男と僕を交互に見てくる。きっと怪しんでるに違いない。
「連れだと?」
「ああ」
男は頷く。
「途中ではぐれてな」
まるであたかも事実みたいに言う。こんな嘘を平然とつけるなんて、やっぱりこの人は遊び人だ。
僕が男を見ると、男もこっちを見て、それから一瞬だけ顎をしゃくった。合わせろ。たぶん、そういう意味だった。
「……あ」
どうすればいいのか分からない。でも。
「そ、そうです」
とりあえず頷いてみる。門番の目が僕と男の間を行き来する。
「本当か?」
「本当だって」
男が肩をすくめる。
「こいつ、極度の方向音痴でさ。列の後ろで待ってろって言っといたのに、勝手にふらふらしてたみたいで」
勝手に方向音痴にされた。初対面なのに、ずいぶんな言われようだ。まあでも、助けもらってるわけだし、文句は言えない。
「そういうことなら早く言え」
門番が舌打ちする。
「いや、俺もちょうど今来たばっかでさ。ほんと参っちまうよ」
「……まあいい。次からは一緒に並べ」
門番はそう言って、門の前へ進む。
「ほら、確認だ」
そして面倒そうな顔で手を上げた。
「称号を提示しろ」
「あいよ」
男が片手を挙げる。
「俺は、『門導士もんどうし』だ」
その瞬間。男の足元に緑の光が広がった。
同時に、門の表面が小さく脈打つ。男が腰の金属具を一つカチャッと鳴らすと、門のロックが開いたような音がした。
『――門導士』
どこからか声みたいな何かが響いた。門番が頷く。あの人、ただの嘘つきな遊び人だと思ったけど、さっきの称号は本物だったんだ。
「確認した」
門がゆっくり開いていく。
「同行者一名を含め、入場を許可する」
開いた門の向こうから、人の声と街の空気が流れ込んでくる。男が親指で後ろを指す。
「ほら」
まるで散歩にでも誘うような気軽さ。
「行くぞ」
男が顎で門の向こうを示した。
「えっ……あ、待って――」
僕は一瞬、固まった。さっきまで絶対に届かないと思っていた場所が、もう目の前にある。
門の向こうから、人の声が聞こえてくる。笑い声。馬の鳴き声。何かを運ぶ大きな声。生きている人たちの音だ。
「……」
気づけば、足が前へ出ていた。門をくぐる。
そして僕は、初めてこの世界の街へ足を踏み入れた。




