二十八話 『孤独の慣れ果て、夕暮れの街で』
「待て!」
怒号が飛ぶ。騎士の一人が僕たちへ向かって手を伸ばした。
「邪魔をするな!」
肩を掴まれる。
「うわっ!」
強い力で引き戻されそうになる。振り払おうとしても、びくともしない。
「その女から離れろ! 悪魔の呪いを受けてもいいのか!」
「っ……!」
言葉を返す暇もなかった。もう一人の騎士が回り込み、僕たちの前へ立ち塞がる。
――挟まれる。そう思った瞬間。ちょうど横を、大量の荷物を積んだ荷車が通りかかった。――ここしかない。
「すみません!」
僕は叫ぶと同時に、少女の手を引いて迫る馬体の鼻先へと突っ込んだ。
「なっ、おい!」
騎士たちの足が止まる。無理に追えば荷車へぶつかる。その一瞬の隙だった。
「こっち!」
荷車の陰へ飛び込み、そのまま細い脇道へ駆け込む。
「待て!」
後ろから怒号が飛ぶ。重い金属音が石畳を激しく鳴らしながら迫ってくる。
僕は少女の手を引いたまま、脇道を駆け抜けた。細い路地へ飛び込む。建物と建物の間は、人が二人並んで走るのがやっとの狭さだ。
背後から、分厚い鉄の鎧がレンガの壁に激しく擦れ合う、鈍い金属音が響いた。
「くっ……!」
騎士たちは鎧のせいで思うように動けないみたいだ。だけど、それでも足音は止まらない。
「まだ来る……!」
路地を抜けると、その先は市場だった。野菜や果物を並べた露店が何列にも続き、大勢の人でごった返す中を、「失礼します!」と叫びながら、人と人のわずかな隙間を縫うようにして駆け抜ける。
「きゃっ!」
「お、おい!」
驚いた人たちが慌てて道を空ける。後ろでは騎士たちが人波に阻まれ、思うように進めなくなっていた。
「どけ! 王国騎士団だ!」
怒鳴り声が聞こえる。けれど、人混みはすぐには割れない。――今しかない。市場を抜け、そのまま細い裏路地へ飛び込む。何度も角を曲がり、息が切れるくらい走り続ける。
やがて。背後から聞こえていた甲冑の音が、少しずつ遠ざかっていった。
「……はぁっ、はぁっ……」
僕は壁へ手をつき、大きく息を吐く。息が苦しい。胸が焼けるくらい熱い。もう、追ってくる足音は聞こえない。
しばらく耳を澄ませていたけれど、もう金属の音は聞こえなかった。
「……よかった。もう、大丈夫」
どうにか振り切れたみたいだ。張り詰めていた力が抜ける。その時だった。
「……手」
小さな声が聞こえた。振り向く。少女は俯いたまま、自分の手を見つめていた。気づけば、僕はまだその手を握ったままだった。
「あっ、ご、ごめん!」
慌てて手を離す。少女は何も言わず、離れた手を胸の前へ引き寄せた。怒っているようには見えない。
「……ありがとう」
少しだけ間を置いて、少女が呟く。
「え?」
「助けてくれたんでしょ」
それだけ言うと、少女は静かに目を伏せた。
「いや、まぁ……」
僕は言葉に詰まる。
「……あのさ」
僕が声をかけると、少女がゆっくりと振り向いた。
「さっき、何してたの?」
少女は少しだけ黙り込む。
「……探し物」
「探し物?」
思わず聞き返す。少女は目を伏せ、小さく首を横に振った。
「言えない」
「そっか……」
それ以上は聞かなかった。聞いちゃいけないような気がしたし、聞いたところで答えてくれない気がした。
少女は何事もなかったように前を向き、また静かに歩き始めた。僕もその隣へ並び、黙って歩き出した。
しばらくの間、僕たちは何も話さず歩いていた。さっきまで必死に走っていたせいか、息がまだ少しだけ荒い。
裏路地を抜け、人通りの少ない道へ出ると、街の喧騒も少しずつ遠ざかっていった。
「……ねぇ」
少し歩いたあと、僕は口を開いた。
「みんな、酷くない?」
僕が言うと、少女は少しだけ視線を向ける。
「普通」
「え?」
「だから、普通」
あまりにも自然だった。まるで、「今日は晴れてるね」とでも言うような口調だった。
「普通じゃないよ」
思わず声が強くなる。
「あんなふうに追いかけられて、捕まえられそうになって……」
さっきの光景が頭に浮かぶ。少女は何もしなかった。逃げようともしなかった。ただ立ち尽くしていただけだった。なのに。
「そんなの、普通なわけない」
少女は僕の顔をじっと見た。赤い瞳は僕の心を見透かしているみたいにも見えるし、どこか遠くを見ているようにも見える。
「いつものことだから」
少女は言った。その声には、怒りや悲しみよりも諦めみたいなものを感じた。
「ていうか」
少女は小さく息を吐く。
「あなただって虚人でしょ」
「え……」
「人のこと心配してる場合じゃないと思うけど」
確かに、その通りだ。僕はまだ称号も持っていないただの虚人だ。自分のことで精一杯なはずなのに。
「……でも」
気づけば、口が動いていた。
「それでも、放っておけなかったんだ」
少女が目を見開く。風が静かに路地を吹き抜ける。白い髪が、ふわりと揺れた。
僕はその横顔を見つめる。傷付いているより、慣れている方が悲しい。そんな気がして、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「昔からなの?」
僕が聞くと、彼女はこっちを見た。そして、少し考えるように視線を落とす。
「……さあ」
小さな声。それだけ言うと、少女は前を向いた。
「……家族とか、いないの?」
気になって、恐る恐る尋ねる。少女は少しだけ足を止める。そして、ゆっくりと目を逸らした。
「忘れた」
短い一言。それ以上は何も続かない。風だけが、二人の間を静かに吹き抜けていく。
「……そっか」
何を言えばいいのか分からなかった。慰める言葉も、励ます言葉も思いつかない。だから、思ったことをそのまま言った。
「僕と一緒だね」
少女は何も答えなかった。それでも、僕たちは並んで歩き続けた。初めて、こんなにちゃんと話せた。
「――それじゃ」
「うん、また」
空白地帯の入り口で、僕たちは手を振って別れた。少女の小さな背中が見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
彼女が初めて口にした「また」という響きが、静まり返った僕の胸の奥で、心地よく残り続けていた。




