09 兆し
二つ目のパイを食べ終えたシグヴェルトが、黒い杖を手に窓辺へ戻る。
白い煙を吐き続けるティレアン火山を眺める背中へ声をかけようとして、レオノーラは一度ためらった。
――仕事の邪魔をしてはいけない。
そう思った瞬間、背中を向けたままシグヴェルトが言う。
「言いたいことがあるのなら言え」
何故口をつぐんだのがわかったのか。
「いえ……仕事には関係ないことなので」
「いいから言え」
振り返り、青い目で見据えてくる。
その視線があまりに強く、レオノーラは観念した。
「……シグヴェルト様は、どうしてわたくしを気にかけてくださるのですか?」
魔力の暴走を止めてくれた。眷属契約を行った。
――そこまではわかる。王国魔術院の総監として、当然の行動だと理解できる。
「わたくしは、王宮を焼きかけた罪人です」
そんな自分に住む部屋を与え、仕事をさせ、秘書にして、いま自分だけを調査に連れてきている。
――直接耳にすることはないが、きっと多くの人々が思っているだろう。
特別待遇ではないか、と。
「…………」
シグヴェルトは窓辺を離れ、レオノーラの正面へ立つ。
「お前には力がある」
「…………」
青い瞳が、まっすぐにレオノーラを見つめていた。
「力あるものは、その力を正しく使う義務がある。私は、お前がその力を正しく使う姿が見たい」
慰めるような響きはなかった。
過ちを気にする必要はないとも、忘れろとも言わない。
シグヴェルトは、レオノーラが持つ力も、引き起こしかけた結果も、どちらも当然のものとして受け止めている。
恐れる様子も、排除する気配も、欠片もない。
「暴走しかけたことを罪だと思うなら、尚更だ。力を制御する術を身につけていけ」
レオノーラは、自分の左手へ視線を落とした。
手の甲には、赤い竜を黒い輪が囲む紋様が刻まれている。
「しばらくは、制御部分は私が受け持つ。お前は私の眷属だからな」
「……はい」
レオノーラは手の甲を見つめたまま、小さく頷いた。
――そうだ。
うじうじしていてはいけない。シグヴェルトはレオノーラだけをここに連れてきた。
彼の期待を裏切ってはいけない。仕事を――仕事をしなければ。
いま、最も大切な仕事――それは、力を制御できるようになること。そして、この場所で望まれた仕事をこなすこと。
そのためにも、この火山帯に関する資料のすべてを覚えたのだから。
レオノーラは窓の外へ目を向ける。
ティレアン火山の麓には、数千人が暮らす街がある。
火山にもっとも近い場所には定点観測所が設けられ、地震の回数や噴煙の量、地下を流れる魔力の変化が常に記録されていた。いま二人がいる観測所も、その一つだ。
火山は街へ危険をもたらすだけの存在ではない。
豊富な地熱を利用した農業が発達し、冬でも果実や野菜が収穫できる。地下から湧き出す温泉は住民の生活を支え、遠方から訪れる者も少なくないという。
街は火山の恩恵によって栄えてきた。
小規模な噴火や地震は幾度も記録されているものの、街そのものを脅かすほどの大噴火は、この百年間一度も起きていなかった。
しかし、過去の記録によれば、ティレアン火山が本格的に噴火した場合、溶岩と噴石は山裾まで達する。現在の規模にまで広がった街は、逃げる間もなく飲み込まれる可能性が高い。
レオノーラは、資料に記されていた街の地図を頭の中へ思い浮かべた。
住宅地、農園、温泉施設。地熱を運ぶため、地下には無数の導管が張り巡らされている。
そのすべてが、この山と結びついている。
(彼に言われたことは、すべて答えられるようにしないと――)
不意に、床が突き上げられた。
「…………っ」
石壁が軋み、窓枠が激しく鳴る。
レオノーラが机へ手をつくより早く、二度目の揺れが観測所を襲った。
先ほどまで足元から伝わっていた振動とは、まるで違う。もっと強くて、広くて、深い。
レオノーラは窓へ駆け寄り、火山を見た。
白かった噴煙が膨らみ、その下で山肌がわずかに震えている。
意識を集中すると、火山の内部を巡る魔力の流れが再び視界へ浮かび上がった。
先ほど見たときは、一部の流れが押し戻されているだけだった。
だが、いまは違う。
行き場を失っていた力が周囲の流れまで巻き込み、山の内側で激しく渦を巻いている。本来なら山裾へ流れるはずの魔力まで逆流し、火口へ向かう流れと正面からぶつかっていた。
光の筋が膨らみ、絡まり、さらに大きな流れへ変わっていく。異常なほど活発化している。
これはもしや、噴火の兆し――
「ふむ。動いたか」
背後から聞こえた声は、あまりにも落ち着いていた。
シグヴェルトは窓の外を見ながら、普段と変わらない顔で黒い杖を手にしている。
「すぐに麓に避難の指示をしないと!」
街には多くの人々がいる。
いまから避難を始めても、全員が安全な場所まで逃げられないかもしれない。それでも、一刻も早く知らせなければ。
シグヴェルトは焦るレオノーラへ、静かに視線を向けた。
「もし噴火したら街ごと転移させる。だから落ち着け」
「……はい?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
この魔術師は、街の住民を避難させるではなく、街そのものを転移させると言った。
「地下設備は無事ではすまないがな。引きちぎるゆえ、復旧には時間がかかる」
レオノーラは目を見開いた。
この魔術師は、できるかどうかではなく、転移させたあとの被害を平然と説明している。
失敗するなんて微塵も思っていない。
やはりこの男は常識の中に収まる存在ではない。
シグヴェルトは黒杖を持ち直した。
「さて、いまはこちらだ」
視線がティレアン火山へ向けられる。
火山はいまや、爆発寸前だった。
地中を巡る光は、刻一刻と勢いを増している。
押し戻された力が山の奥へ溜まり、いまにも行き場を求めて噴き出そうとしている。
シグヴェルトが、レオノーラへ視線を向ける。
青い瞳には恐れも迷いもない。むしろ、どこか楽しそうだった。
「さあ――火山を御してみろ。火竜よ」
「は……はあっ?!」
レオノーラの叫びと低い地鳴りが、再び観測所を揺らした。




