08 大切なもの
次の瞬間、頬へ熱い空気が触れた。
恐る恐る目を開くと、先ほどまでいた魔術院の執務室は消えていた。
二人が立っているのは、石造りの小部屋だった。床には転移陣が刻まれ、壁にはティレアン火山帯の地図が掛けられている。
窓の外には、黒々とした山肌が広がっている。遠くに見える火口からは、白い煙がゆっくりと空へ昇っている。
低い地鳴りが足元から伝わってきた。
――本当に、移動している。王都から三日の距離を一瞬で。
疑っていたわけではないが、あまりにも常識外のことでにわかには信じがたい。
「ふむ。変わりはないな」
シグヴェルトは平然とした顔で室内を一度見渡して、机の上にレオノーラの鞄を置く。そのまま扉を開け外へ向かった。
レオノーラも慌ててあとを追う。
扉を開けた途端、熱を含んだ風が正面から吹きつけてきた。
空気は乾き、わずかに硫黄の匂いがする。足元の地面は黒く、ところどころ赤茶けた岩が剥き出しになっていた。
遠くにはティレアン火山がそびえている。
火口から上がる白煙は穏やかに見える。けれど、地面の奥から伝わってくる低い振動は、山が眠っているのではなく、じっと息を潜めているようにも感じられた。
シグヴェルトは杖を地面へ軽く突き、火山を見上げる。
「何か感じるか?」
レオノーラは目を閉じた。
頬を撫でる熱風。足裏から伝わる震え。空気の中に混じる魔力。
感じ取れるものがあまりにも多く、どれが異常で、どれが火山では当然のものなのか、判断がつかなかった。
目を開く。
隣に立つシグヴェルトは、答えを急かさず、ただレオノーラを見ていた。
「――何か見えるか?」
問いを変えられ、レオノーラはもう一度火山へ視線を向けた。
意識を集中すると、山の内部を流れる魔力が淡い光の筋となって浮かび上がる。
無数の流れが地中から火口へ向かい、また枝分かれしながら山裾へ広がっている。
一見すれば、規則正しい。
けれど、よく見ると一部だけ動きが違った。
本来なら外へ抜けるはずの流れが途中で押し戻され、別の流れとぶつかっている。無理に方向を変えられた水路のように、行き場を失った力が山の内側へ滞留していた。
「流れが、乱されているような気がします」
確信を持てず、レオノーラは慎重に答えた。
シグヴェルトは火山を見たまま、わずかに頷く。
「上出来だ」
――褒められた。
胸がくすぐったい。
自分は思いのほか単純らしい。褒められて、こんなに嬉しいなんて。
「一度観測所に戻るか」
「はい」
レオノーラは答えながら、額へ浮いた汗を拭った。それにしても暑い。
観測所へ戻ろうと踵を返したとき、靴の下で小石が滑った。
「あっ」
傾いた身体を、横から伸びてきた腕が支える。
転倒は免れたものの、レオノーラはシグヴェルトの胸元へ抱き留められる形になった。
「申し訳ありません。足元を見ていませんでした」
身体を離そうとしたが、腰へ回された腕はすぐには解かれなかった。
シグヴェルトはレオノーラではなく、観測所まで続く黒い岩場へ目を向けている。
次の瞬間、身体が宙へ浮いた。
背と膝の裏へ腕を回され、軽々と抱き上げられている。
レオノーラは反射的にシグヴェルトの肩を掴んだ。
「シグヴェルト様!」
「また転ばれても困る」
「もう足元には気をつけます」
「観測所までだ」
聞くつもりはないらしい。
シグヴェルトはそのまま岩場を歩き始めた。
腕の中は安定していて、先ほどまで足元から伝わっていた振動も、ほとんど感じない。
けれど、別の意味で落ち着かなかった。
すぐ近くにあるシグヴェルトの顔を見上げることもできない。
観測所へ着くと、シグヴェルトは何事もなかったようにレオノーラを床へ下ろした。
靴底が石の床へ触れる。
それでも、身体がまだ宙に浮いているような心許なさが残っていた。
腰を支えていた腕の強さも、すぐ近くにあった胸元も、離れたはずなのに妙にはっきりと覚えている。
レオノーラは乱れた呼吸を悟られないよう、そっと息を整えた。
外から戻ったばかりなのだから、心臓が速いのは暑さのせいだろう。慣れない岩場を歩いたせいかもしれない。ほとんど歩いてはいないけれど。
シグヴェルトはそんなレオノーラの動揺には気づいていないのか、すでに窓の外へ視線を向けていた。
それにしても、さすがは火山帯。分厚い石壁に遮られた室内にいても、王都とは比べものにならないほど暑い。
そして机の上の大きな鞄を見つめる。
中身は無事だろうか。
「荷物が気になるのか」
突然指摘され、レオノーラの肩が跳ねた。
「ええと、少々、デリケートなものが入っていますので」
「ほほう」
何か面白いものを見つけたように、シグヴェルトの目がわずかに細くなる。
彼はためらいもなく留め具へ手をかけた。
「お待ちください。わたくしが開けます!」
レオノーラは慌てて彼の手を止めた。
シグヴェルトは手を引いたが、鞄から離れようとはしなかった。レオノーラが留め具を外す様子を、すぐ隣からじっと見ている。
レオノーラは鞄から大きな箱を取り出し、机の上へ置いた。
包んでいた布を外し、紐を解く。
蓋を開けると、中には小さく切り分けた肉入りのパイや、香草と卵を挟んだパン、薄く焼いた肉と野菜、それに木の実を使った焼き菓子が詰められていた。
シグヴェルトが無言で中身を見下ろす。
「食事か」
「はい。移動中に簡単に召し上がれるものがあるかわかりませんでしたので」
シグヴェルトが普段どれほど食べるのかわからなかったため、少しずつ種類を増やしているうちに、箱が大きくなってしまった。
シグヴェルトの視線が、料理の上をゆっくりと移動する。
「私の好物ばかりだな」
「……離宮の方々に尋ねました。料理長と、侍従長と、食事を運ばれている方々に」
「ずいぶん大がかりな調査をしたことだ」
「……シグヴェルト様が、あまり食事を召し上がられていないご様子だったので」
レオノーラが見ている範囲でも、シグヴェルトは食事を取る回数も量も少なかった。
朝は茶だけで済ませ、昼は執務を理由に抜いてしまう。夕食も、用意された料理に手をつけないまま終わることがある。
好物であれば、少しは食べる気になるかもしれない。
そう思って選んだのが、箱の中の料理だった。
「見ていたのか」
「しばらく一緒にいたのですから、誰でも気づきます」
「一時的に食欲が落ちていただけだ。いまは快方に向かっている」
シグヴェルトは、たいしたことではないという口調で言った。
そして、箱から肉入りのパイを一つ取り出す。
皿へ移すことも、椅子に座ることもせず、その場で無造作に口へ運んだ。
レオノーラは目を見開いた。
継承権を放棄したとはいえ王族であり、公爵でもある男の食事風景とは思えない。
けれど、食べている。
レオノーラの作ったものを、食べてくれている。
口に合わなければどうしようかと思っていたが、シグヴェルトは二口目を食べ、ゆっくりと飲み込んだ。
「うまい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった緊張がほどけた。
「そうですか」
平静を装って答える。
けれど、シグヴェルトはパイを手にしたまま、じっとレオノーラを見ている。
「お前が作ったのか?」
心臓が跳ねた。
なぜわかったのだろう。
「料理長のものと少し味が違う。だが、嫌いではない」
シグヴェルトは残っていたパイを食べきった。
「そうですか……良かったです」
――料理は、レオノーラの唯一の趣味と言えるものだ。
幼い頃、教育から少しだけ逃げたくて、厨房へ通ううちに覚えたものだった。
誰かの役に立つためでも、妹を支えるためでもない。レオノーラが自分で選んで始めた、数少ないことの一つだ。
シグヴェルトの手が、二つ目のパイへ伸びる。
「シグヴェルト様。そちらは昼食分です」
「傷むと困るのだろう」
「それはそうですけれど……」
「私の好物ばかり入れたのはお前だ」
そう言われると、返す言葉に困る。
シグヴェルトは二つ目のパイを取り、今度は箱の端に並べた焼き菓子へ視線を移した。
「こちらは間食用です!」
「まだ何も言っていない」
言ってはいないが、目が完全に焼き菓子に狙いを定めていた。
レオノーラは守るように、箱の蓋を半分閉める。
食欲が戻りつつあるという言葉は本当らしく、それは喜ばしいことなのに、今度は食べる量を管理しなければならなくなりそうだった。
シグヴェルトは二つ目のパイを手にしたまま、閉じかけた箱とレオノーラを交互に見る。
「しかしまあ、随分と私の秘書らしくなってきたようだ」
どこか嬉しそうに言って、二つ目のパイを食べた。




