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都合のいい長女は今日でおしまい  作者: 朝月アサ


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7/7

07 火山調査へ



 レオノーラが王都を焼きかけてから、十日が過ぎた。


 あの日、床も机も見えないほど書類が積み上がっていた王国魔術院は、いまでは別世界となっていた。


 申請書、報告書、予算要求書、封印設備の点検記録。すべて提出先と期限によって分類し、急を要する案件には赤い札を、確認待ちの案件には青い札をつけた。

 処理の終わったものは記録を残して保管庫へ送り、過去の案件も年度と地域ごとに並べ直している。


 レオノーラは執務室の中央に立ち、整然と並んだ棚を見渡した。


 美しい。


 必要なものが、必要な場所にある。誰が見ても次に何をすべきかわかり、机の上には今日中に処理できる量の書類しか置かれていない。


 これこそが仕事場というものだ。


 胸の奥から、じわじわと満足感が湧き上がってくる。

 もっと眺めていたい。

 可能なら、乱れがないか棚の端からもう一度確認したいぐらいだ。


 その時、重要書類を収めた棚のガラス扉の表面に、小さな曇りを見つける。


 レオノーラは眉を寄せた。

 仕事場の汚れは心の乱れに繋がる。懐から布を取り出し、円を描くように丁寧に拭う。曇りが消えたのを確認したとき、ガラスに自分の姿が映っていることに気づく。


 そこにいたのは、記憶にある姿よりも随分明るい顔をした自分だった。


 黒髪は、きつすぎず、かといって崩れない程度に緩くまとめられている。以前は目の下に長年住みついていたクマも、いつの間にか姿を消していた。頬には自然な色が戻り、肌にも艶がある。


 そして気づく。眠る時間を削ってすべてをこなしていた頃は、いまよりずっと疲れた顔をしていたと。


 いま着ているのは、離宮で用意された仕事用のドレスだった。


 首元まで覆う立て襟に、装飾は控えめ。華やかさには欠けるが、丈夫で上質な布が使われており、長時間着ていても窮屈さを感じない。通気性もよく、腕を動かしても肩や袖が引きつることはなかった。


 華美ではない。だが、似合っていることは自分でもわかる。

 そしてこれも、まるで初めからレオノーラのために仕立てられたように、寸分の狂いもなく身体へ合っていた。


 スカート丈は足首より少し上までしかなく、裾を気にせず歩けた。足元には、磨かれた丈夫な革のブーツを履いている。


 王宮で着ていたドレスとは違う。

 誰かに見せるためでも、王太子の隣へ立つためでもない。働くレオノーラが、動きやすく過ごすための服だった。


 ガラスに映る自分を見つめ、レオノーラはわずかに口元を緩めた。


 ここへ来てから、まだ十日しか経っていない。

 それなのに、ずっと昔からこの姿だったような気さえした。


 そう思っていたところへ、硬い音がひとつ響いた。


 いつの間にか入ってきていたシグヴェルトが、黒い杖で床を軽く叩いたのだ。


「そろそろ出るぞ。準備はできているな」

「はい。いつでも出発できます」


 レオノーラは名残を惜しみながらも棚に背を向けた。

 本日は、ティレアン火山帯の調査に向かう。準備は十分すぎるほどにできていた。


 ――ふと。シグヴェルトの手にある杖へ、目が留まる。


 艶のない漆黒の杖は、装飾らしい装飾を持たない。柄頭に銀色の石が埋め込まれているだけで、一見すれば驚くほど簡素だった。


 しかし、杖の内部には途方もなく複雑な魔力の流れがある。


 いくつもの術式が幾重にも重ねられ、互いを邪魔することなく収まっていた。


 黒杖。

 シグヴェルトがそう呼ばれるようになった所以の杖だ。


 ――美しい。

 魔術院にいるといくつもの術式を目にすることがあるが、これほど精密で美しく整った流れは他にない。


 レオノーラは見惚れそうになるのを我慢して、机の脇に用意していた二つの鞄を持ち上げた。


 ひとつは調査中に必要な筆記用具――シグヴェルトからもらったペンや、ノート。そして小物が入ったもの。もう一つの鞄には、着替えなどが入っている。


 ティレアン火山帯までは、通常なら馬車で三日を要する。準備は万全に整えてある。


「では、行くぞ」

「はい」


 鞄を手に、レオノーラはシグヴェルトのあとを追った。


 ところが彼は廊下へ出るのではなく、執務室の奥へ戻っていく。

 忘れものだろうか。ならば自分も探すのを手伝わなければ。


 王国魔術総監であり、公爵でもあるシグヴェルトが直接赴くのだ。護衛の騎士や魔術師、身の回りの世話をする従者も伴うはずである。


 彼らを長く待たせるわけにはいかない。


 執務室に入ったシグヴェルトは、黒い杖の先で床をなぞった。


 杖が通ったあとへ黒い光が残り、線は瞬く間に枝分かれしていく。円の内側へ幾何学模様と古い文字が浮かび、複数の術式が絡み合いながら一つの形を作り上げた。


 複雑だが、無駄がない。膨大な魔力を扱う術式でありながら、すべての線に明確な役割があり、始点から終点まで秩序立てて組み上げられている。


「あの、これは……?」

「転移陣だ。これで目的地まで一瞬で移動する」


 レオノーラは転移陣を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 三日間の移動に備え、道中で目を通す資料を選んだ。馬車に酔わないよう食事の量も調整し、火山帯までの街道と宿泊予定地も頭へ入れてきた。


 公爵一行に同行するのだから、粗相がないよう心構えもしていたのに。


「え、ええと……では、馬車は使わないのですか?」


 シグヴェルトは浅いため息をつく。


「あんな前時代的なものは使わん。短距離ならともかく、長距離を移動するものではない」


 王国中の人々が、いまもその前時代的な乗り物で移動しているのに。


「え、ええと……それでは、随伴者は」

「お前だ」

「わたくし一人ですか?!」

「大人数で行けば面倒も増える」

「…………」


 レオノーラは頭を抱えて蹲りたくなった。


「お前は、まだ私という人間を理解していないようだな」


 ――横暴。面倒くさがり。整理整頓ができない。毎度説明が不足している。


 なんということだろう。いま口を開けば文句しか出てこない。


「私を、誰だと思っている」


 シグヴェルトが顎をわずかに上げた。


「偉大なるエルダーシュタイン公爵閣下です」

「違う」


 違わない。だがいま求めているのはその呼び方ではないらしい。


「王国最強の魔術師であり、魔術総監であられる黒杖卿」

「違う」


 違わない。だが、彼の求めるものではないらしい。

 いつの間にか話題の方向が変わっているようだ。

 彼が望む答えは、いったい……


「――殿下」

「王位継承権は放棄した」


 不正解の嵐である。

 レオノーラは覚悟を決めて、その名前を口にした。


「……シグヴェルト様」


 王族の名前を直接呼びかけることができるのは、ごく親しい間柄だけ。

 このまま首を飛ばされてもおかしくない。


「……ふむ。まあ及第点か。今後はそのように呼ぶがいい」

「無理です」


 他の誰かに聞かれれば大問題になる。


「二人きりの時だけでいい」


 台詞だけ聞けば随分甘いが、レオノーラにとってはかなり危険な要求だ。

 なのに。


「……わかりました」


 承諾してしまった。

 シグヴェルトはどこか楽しそうに頷く。


「よい心がけだ。――それにしても、ずいぶんと荷物が多いな」


 シグヴェルトの視線が、レオノーラの二つの鞄へ落ちた。


「……馬車で移動すると思っていましたので」

「夕暮れまでには戻れる。荷物は最低限でいい」


 そういう彼は、黒い杖以外は何も持っていなかった。


「……荷物を整理しますので、少々お時間をください」


 レオノーラは大きいほうの鞄を床へ置き、蓋を開けた。


 着替え。洗面用具。夜間の冷え込みに備えた肩掛け。宿泊する可能性を考えて用意したものを、ひとまとめにして取り出す。


 残った荷物を確認していると、シグヴェルトが鞄の中を覗き込んだ。


「その大きな箱も置いていけ」


 鞄の半分近くを占めている箱を指している。


 レオノーラは反射的に蓋を閉めた。


「こちらは、その……大切なものです」

「ほう」


 シグヴェルトの目が細くなる。


「中身は?」

「……秘密です」


 シグヴェルトは追及しなかった。むしろどこか楽しそうな顔をしていた。


 レオノーラが鞄の留め具を締めると、横から伸びてきた手が取っ手をつかみ、鞄を軽々と持ち上げる。


「公爵閣下、それはわたくしが持ちますので!」


 レオノーラが手を伸ばすと、鞄がひょいとさらに高く持ち上げられた。レオノーラが手を伸ばしても簡単には届かなさそうな高さに。


「呼び方が戻っている」


 言って、上から意地悪そうに見下ろしてくる。


「……シグヴェルト様」

「そうだ。それでいい」


 シグヴェルトはそう言うと、鞄を持ったまま転移陣の中央へ立つ。


「早く来い」


 鞄を返すつもりはないらしい。あまりにも横暴すぎる。


 レオノーラが諦めて転移陣へ足を踏み入れると、シグヴェルトは黒杖を床へ突いた。


「目を閉じておけ。慣れていないと酔う」


 黒い光が足元から立ち上がった。


 身体が宙へ放り出されたような感覚に、レオノーラは思わず目を閉じた。

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