05 離宮の部屋
離宮へ戻り、夕食を済ませたあと、レオノーラは朝に案内された部屋へ入った。
湯浴みと着替えに追われていたときには、部屋の中をよく見ていなかったが、改めて眺めれば、客室としてもかなり広く、そして――あまりにも、居心地がいい。
天蓋のついた寝台には柔らかな布が掛けられ、窓辺には長椅子が置かれている。壁際の本棚には歴史書や旅行記が並び、窓の近くには書き物をするための机まで用意されていた。
机は装飾を抑えた実用的な造りで、書類を何冊も広げられるほど大きい。椅子へ腰かけてみると、高さも背もたれの角度も身体によく合った。長く座っていても疲れにくそうだ。
寝台の近くに置かれた魔導灯も、書物を読むには十分な明るさがある。
おそらく、離宮にある客室の中でももっとも格調高い主客室だ。
(……あまりにも、待遇がよすぎるのでは?)
――そのとき、部屋に漂う香りに気づいた。
花の甘さに、わずかに柑橘を混ぜた穏やかな香り。レオノーラが昔から好んでいたものだ。心が落ち着き、疲労が和らぐ香り。
それが何故この部屋にあるのか。
寸法ぴったりのドレスに、新品の女性の肌着、好みの香り、使いやすい家具――……
あまりにも準備がされすぎている。
特にサイズぴったりのドレスはすぐさま揃えられるものではない。他のことは偶然だとしても、そこだけは偶然と言い切れない。
(わたくしの寸法は、仕立て屋に確認すれば調べられるけれど……)
まるで、レオノーラをこの離宮に迎えることが、ずっと以前から決まっていたかのように――……
「……そんなはずはないわ」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
だって、そんなことをする理由がない。
ならば答えは一つだけ。
この部屋は、もともと別の女性のために整えられたものなのだ。
シグヴェルトには妻がいないが、恋人がいないはずはない。
――聞いたことはないけれど。
それは、レオノーラが社交には疎いからだっただけで、界隈では知れ渡っている話なのだろう。きっと。きっと。
その恋人がこの部屋を使っていたから、色々と揃えられている。
その恋人がレオノーラと体形が似ていたから、彼女のために作ったドレスがぴったり合った。
彼女の好む香りが、レオノーラの好みの香りと似ていた。
それだけの話だ。不思議なことなんて何もない。――ないはずだ。
(その彼女は、どこにいるのかしら。いまは、離宮にはいないのよね……)
別れたのか、一時的に居を移しているのか。もしかしたら、ほどなく戻ってくるのか。
戻ってきた場合、この部屋を明け渡すことになるだろうが――その恋人の立場に立って見た場合、非常に複雑だ。自分の不在の間に、別の女が部屋を使い、ドレスを着ていたなんて。
(修羅場が起こるわ……)
その時は、全力で弁明しなければ。
自分とシグヴェルトの間には何もないと。眷属契約しかないと。
――それすらも苦しい言い訳な気がする。
レオノーラはかぶりを振った。自分が考えても仕方ないことだ。
(……それにしても、わたくしはいつまでここに置かれるのかしら……)
手の甲に刻まれた紋様――眷属の証を見る。
そして、彼からもらったペンを取り出し、見つめる。
――今日一日、彼と共にいた。仕事をして、お茶をした。
――感謝を、された。
そして、こんな豪華な部屋まで与えられて。
レオノーラは立ち上がり、窓辺に立った。
彼といると、調子が狂う。こんなに誰かに気遣ってもらったことなんて――……
(……なかったかもしれない)
王太子の婚約者だったのに。この国の貴族の女性として、最高の地位に立つはずだったのに。
自分に与えられていたのは、役割だけだったのかもしれない。
だからだろうか。立場も、未来も、何もかも失ったのに。
――いま、とても、肩が軽い。
そのとき、扉を叩く音がした。
レオノーラが返事をするより早く扉が開き、黒い外套を脱いだシグヴェルトが、当然のように部屋へ足を踏み入れた。
「体調はどうだ」
レオノーラは目を瞬き、それから眉を吊り上げた。
「公爵閣下。女性の部屋へ、返事も待たずに入ってくるのは非常識です」
シグヴェルトは足を止めた。
「体調を確認しに来ただけだ」
「だとしても、わたくしは女です。もしも着替えている最中だったらどうなさるおつもりだったのですか」
彼は王国魔術総監で、公爵で、女王の弟だ。だからといって、あらゆる礼儀を無視してよいはずがない。
「これは公爵閣下のためにも言っているのです。特に相手が女性である場合は、最低限の礼儀です」
レオノーラが睨んでいると、シグヴェルトはしばらく黙っていたが、やがて何も言わずに廊下へ戻った。
扉が閉じる。
(……気分を害されたのかしら。いいえ、これは必要な小言よ)
すぐに、今度は控えめな音で三度叩かれた。
「入ってもいいか」
あまりにも素直にやり直され、レオノーラは怒りの行き場を失った。
「……どうぞ」
扉が開き、シグヴェルトが再び入ってくる。
悪びれた様子もなく。
「それだけ元気なら、体調に問題なさそうだな」
「……はい。おかげさまで」
「部屋に不足はあるか?必要なものがあるなら言え」
「十分すぎるほどです。主客室を使わせていただけるなんて、身に余る光栄です」
礼をしようとすると、シグヴェルトはわずかに首を傾げた。
「客室ではない。お前の部屋だ」
「……わたくしの?」
「ああ」
「……恋人の方のものではなく?」
「そんなものはいない」
きっぱりと、言い切る。
「……ご冗談を」
「何故お前に冗談を言わなければならない」
レオノーラは改めてシグヴェルトを見た。
先王の末子であるシグヴェルトはまだ二十代半ばであり、整いすぎているぐらいの容貌を持っている。
地位も、血統も、美貌も、実力もある。
きっと秘密の恋人がいるはずだ。
もし、いま恋人がいないのだとしても、それはたまたまタイミングの問題か、理想が高すぎるのか、仕事が忙しすぎるのか、そのいずれかだろう。
(……でも、確かに、公爵閣下が舞踏会で女性を連れているところを見かけたことはないわ)
重要な式典には参加はするが、誰とも踊っていなかった。そもそも式典にすら職務を理由に不参加なことが多かった。
そういえば、女性嫌いという噂も聞いたことがある。
シグヴェルトはレオノーラへ近づき、手の甲に刻まれた紋章へ目を落とした。
「痛みは? 熱はあるか?」
「少しだけ。ですけれど、気になるほどではありません」
彼の指先が、紋章へ触れた。
手袋越しなのに、ひやりとした感触が伝わってくる。
レオノーラは思わず身を強張らせた。
それに気づいたのか、シグヴェルトはすぐに手を離す。
「今夜は早く休め。魔力が目覚めた直後は、自覚がなくとも身体へ負担がかかるものだ」
「……はい」
部屋を出ていくシグヴェルトの背中に、レオノーラは静かに頭を下げる。
「公爵閣下……おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ、レオノーラ」
レオノーラはシグヴェルトの背中を見送る。
一人になってから、もらったペンを机の上へ静かに置いた。
――落とさないように。無くさないように。




