04 褒美
レオノーラは王国魔術院で積み上げられた書類の整理を続けていた。
新たに運び込まれる書類の山もすでに大半が片づいて、机の上は驚くほど整然としていた。
仕事に没頭していると、余計なことを考えずに済む。
目の前の束を処理したら、その下から期限を過ぎた申請書が見つかった。そちらを片づけると、今度は予算額の合わない報告書が出てきた。
中途半端な状態で席を立つほうが落ち着かない。
次の書類へ手を伸ばしたところで、指先が空を切った。
書類の行方を追って顔を上げると、シグヴェルトが書類を持って立っていた。
「……なんでしょうか?」
「もう昼だ。休憩を取れ」
窓の外へ目を向ければ、太陽は確かに高く昇っている。しかし、昼になったことと、書類を取り上げられることは別問題である。
「ですが、まだ途中でして」
「聞かん。続きは食事のあとだ。立って食堂に行ってこい」
レオノーラは当惑した。
仕事を止められることがあるとは思っていなかった。
「食事や休憩よりも、仕事が最優先でしょう」
レオノーラが言うと、シグヴェルトは眉間に深い皺を刻んだ。
――怒っている。
「いいから休め。命令だ」
――命令ならば仕方ない。レオノーラは納得していなかったものの、席を立った。
「承知しました」
魔術院の食堂には、職員たちと同じ料理が用意されていた。
昨夜まで王太子の婚約者だった伯爵令嬢が、一般の職員に交じって食事をしている。好奇の視線を向けられるかと思ったが、疲れ切った魔術院の者たちには、他人を観察する余力もないらしい。
レオノーラは落ち着いて食事を済ませると、すぐに執務室へ戻った。
午後も仕事は途切れなかった。
そして、午後も半ばを過ぎ、ようやく書類の終わりも見えてきた頃、執務室へ茶器が運び込まれた。
茶だけではなく、小さな焼き菓子や果物を使った菓子まで添えられている。
「お前もこちらへ来い」
呼ばれ、シグヴェルトの執務机に向かう。
「いかがいたしました、公爵閣下」
「座れ」
言われた通り近くにあった椅子に座ると、目の前に紅茶と菓子が置かれる。
「冷める前に食べろ」
レオノーラは目を瞬いた。
「わたくしが、ですか?」
「他に誰がいる」
小さな皿には、柑橘の香りをつけた焼き菓子と、甘さを抑えた果実の菓子が並んでいる。
美味しそうだった。とても。
それに、糖分補給は必要だ。
レオノーラは焼き菓子を一つ取った。
ほろりと崩れる生地から、爽やかな香りが広がる。甘すぎず、仕事の合間に食べるにはちょうどよい。
「……おいしい」
声に出してから、レオノーラは口を閉じた。
シグヴェルトは何も言わなかったが、本をめくる手が一瞬だけ止まったように見えた。
見間違いかもしれない。
レオノーラはそれ以上考えず、残りの菓子も食べてから仕事へ戻った。
窓の外が暗くなった頃、シグヴェルトが帰宅を告げた。
まだ処理したい仕事が残っていたが、レオノーラは素直に従った。
帰りの馬車は、朝と同じように静かだった。車輪が石畳を踏む音と、規則正しい馬蹄の響きだけが、薄暗い車内を満たしている。
ただ、朝ほど居心地の悪さは感じない。
向かいに座る男が何を考えているのかはわからないが、少なくとも、いますぐ危害を加えられる心配はなさそうだった。
レオノーラが窓の外へ目を向けていると、向かいから低い声がした。
「……今日は」
珍しくシグヴェルトのほうから話しかけられ、レオノーラは顔を上げた。
「今日は、よくやってくれた」
シグヴェルトは、わずかに言いにくそうな顔をしながらも、続けた。
「助かった……礼を言う」
「…………」
レオノーラは何も答えられなかった。
シグヴェルトを見つめたまま、瞬きを繰り返す。
「なんだ、その顔は」
「いえ……」
びっくりした。
本当にびっくりした。
ねぎらわれたのなんて、いつぶりだろう。
いつからか、仕事をするのは当然のことになっていて。
よくやったとも、助かったとも、長年誰にも言われていない。
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
それを悟られたくなくて、レオノーラは膝の上で両手を重ねた。
「褒美は何がいい?」
「褒美?」
「働きには相応の報酬があるのが当然だろう。金でも、品物でも、可能な範囲で用意する」
そうは言われても、何も思いつかない。
――それに。報酬目当てで働いたと思われたくなかった。
「……必要ありません。わたくしがしたくて、勝手にしたことですから」
「だとしても、対価を受け取らなくてもよいという理屈にはならん」
シグヴェルトは呆れたように息を吐いた。
「欲のない女だな」
「…………」
黙り込んだレオノーラを見て、シグヴェルトは何かを考えるように目を細めた。
やがて胸元へ手を伸ばし、内側のポケットから一本のペンを抜く。
「ならば、これでいいか」
差し出されたのは、黒い軸に銀の装飾を施した細身のペンだった。華美ではないが、よく手入れされている。握る部分には、長く使われてきたらしい、わずかな艶があった。
魔術院でシグヴェルトが書類へ署名するとき、何度も使っていたものだ。
「こちらは、公爵閣下がお使いになっていたものでは?」
「ああ。書き心地がいい。お前なら、私よりよく使うだろう」
「ですが、大切なものなのではありませんか」
少なくとも愛用の品であることは間違いない。
「だからお前が持っていろ」
レオノーラはためらいながら、差し出されたペンを受け取った。滑らかな軸には、胸元へ差されていた名残の温かさがわずかに残っている。
「……ありがとうございます。大切に使います」
「うむ。いざというときには武器にもなる」
「そんな物騒なことはしません」
レオノーラは膝の上へペンを置き、転がらないよう指先でそっと押さえた。
自分の仕事に対して、初めてもらった褒美。
それは、とても、輝いて見えた。




