03 離宮の部屋
長い石段を上り、重い扉を抜けると、朝の光が窓から差し込んできた。暗闇に慣れていた目には眩しかった。
王宮の裏手には、黒塗りの馬車が待っていた。
シグヴェルトが先に乗り込み、レオノーラも向かいの席へ腰を下ろす。
「どちらへ向かうのですか」
「私の離宮だ」
それ以上、シグヴェルトは何も説明しなかった。
レオノーラも尋ねるのをやめ、窓の外へ視線を移した。
――静かだった。
馬車はほどなくして、王宮の北側にある離宮へ到着した。
灰色の石で造られた建物は、王族の住まいとしては装飾が少なく、重厚で静かな佇まいをしている。広い窓や、隅々まで整えられた庭だけが、住人の身分の高さを物語っていた。
玄関では、使用人たちが一斉に頭を下げた。
焦げたドレスをまとったレオノーラを見ても、誰一人として表情を変えない。
シグヴェルトは家令へ客室と湯、着替え、食事を用意するよう命じると、レオノーラには何も告げずに離宮の奥へ消えていった。
そのまま侍女に案内された客室には、すでに湯が用意されていた。煤に汚れた身体を洗われ、焦げた髪の先を整えられる。
温かな湯へ身体を沈めると、強張っていた手足から、ゆっくりと力が抜けていった。
レオノーラは湯の中で手の甲を見つめた。赤い竜は、黒い輪の中で翼を広げている。
(眷属……とはなんなのかしら)
魔術の専門用語には詳しくない。
だが、主従関係に近いものだろうことは、想像に難くない。
(これから一体、どんな扱いを受けるのかしら)
昨日までは王太子の婚約者だったのに――真実を知らない道化の、だけれど。
いまは罪人であり、あの男の眷属だ。
(……ひどいことをされるのかしら)
湯浴みを終えると、着替えが用意されていた。
ドレスだけではない。身に着けるもの一式。肌着も靴下も、室内履きも、新品で揃えられていた。
ドレスは深い青色の生地に、銀糸で細かな刺繍が施されている。華美ではないが、生地も仕立ても一目で上等だとわかった。
シグヴェルト公爵には妻はいない。ならばこれは恋人のものだろうか。
見知らぬ女性の服を借りることには抵抗があったものの、身に着けていたものは既にすべて片付けられている。
促されるまま袖を通したレオノーラは、鏡の前で動きを止めた。
肩も、胸元も、腰回りも、恐ろしいほど身体に合っていた。袖の長さも裾の位置も、まるで何度も採寸したかのように寸分の狂いがない。
(どうして、わたくしのサイズを知っているの――?)
鏡に映る青いドレスは、気味が悪いほどによく似合っていた。
◆◆◆
身支度を終えて食堂へ向かうと、長い食卓には温かな料理が並んでいた。
焼きたての白パンに、肉と野菜を煮込んだスープ、香草を添えた卵料理。果物と小さな焼き菓子まで用意されている。
胃が、勝手に食欲を訴える。
シグヴェルトはすでに席に着き、食事へ手をつけることもなく書類を読んでいた。
「座れ。昨夜から何も食べていないだろう」
命令され、レオノーラは向かいの席へ腰を下ろした。
命令されるまま食事を取ることには抵抗があったが、空腹には勝てない。
レオノーラは白パンを小さくちぎり、口へ運んだ。
表面は香ばしく、中は驚くほど柔らかかった。
続いてスープを口にすると、肉と野菜の旨味が身体の奥まで染み込んできて、思わず手が止まった。
(おいしい……)
表に出さないようにしながらスープを口に運んでいると、正面から視線を感じた。
顔を上げると、シグヴェルトが書類越しにこちらを見ていた。
「何か、問題でも?」
「いや。食欲があるなら、しばらく死ぬことはなさそうだと思っただけだ」
「そうですか」
レオノーラは気にしないようにして、食事を続けた。
どれも丁寧に作られている。最後の焼き菓子まで。
食べ終えると、シグヴェルトが書類を閉じた。
「では行くぞ」
レオノーラは目を瞬く。
シグヴェルトはほとんど食べていない。
すでに軽く済ませているのか。なんにせよ、レオノーラが口を出すことではなかった。
「今度はどちらへ?」
「私の職場だ」
靴を変え、再び馬車へ乗せられる。
次に向かったのは、王宮の東側に建つ巨大な石造りの建物だった。正面には杖と星を組み合わせた紋章が掲げられている。
王国魔術院。
王国中の魔術師を管理し、魔導具の開発や魔法災害の調査、危険な魔獣や遺物の封印を担う機関だ。
「私のものになった以上、お前にも働いてもらう」
馬車を降りたところで告げられ、レオノーラは胸の内で身構えた。
罪人へ任せる仕事など、危険で、誰もやりたがらないものに決まっている。
ところが、重い扉が開いた瞬間、予想していたものとは別の意味で足が止まった。
建物の中は、書類に埋め尽くされていた。
机の上に積まれているだけではない。棚からはみ出した束が床へ崩れ落ち、廊下の端にも置き場を失った書類が積み上げられている。その隙間を、疲れ切った職員たちが重い足取りで行き来していた。
机へ突っ伏したまま動かない者もいれば、書類を抱えて壁にもたれ、立ったまま眠りかけている者もいる。
魔法災害を扱う組織というより、すでに何らかの災害に見舞われたあとのようだった。
(これが……王国魔術院?!)
その総監であるシグヴェルトはどこか他人事のように、そのまま書類の間を進んでいく。
「…………」
レオノーラは言葉を失いながらも、その背を追った。
総監の執務室は、廊下よりもさらに酷い有り様だった。書類の塔が窓を塞ぎ、机の天板すらほとんど見えない。
「ティレアン火山帯に関する資料を持ってこい」
シグヴェルトが命じると、ほどなくして何冊もの資料が運び込まれた。
そして、レオノーラを見る。
「すべて読み込んでおけ。期限は十日だ。近いうちに現地へ向かう。お前にも同行してもらうつもりだ」
仕事の説明。期限の提示。理由の開示。
だが、必要なことが一つ足りない。
「どのような目的で?」
目的がわからなければ、過不足のない仕事はできない。
領地の経営状態を知りたいのなら、帳簿を作成し、予算の流れを見ることが必要だ。
新たな政策を作るのなら、その目的と過去の政策を照らし合わせ、重複や矛盾に注意し、現状を調査して具体的な想定を用意することが必要だ。
――それでは、何故この男はレオノーラを火山帯に連れていくのか。
まさか、火口へ放り込むつもりではないだろうか。
「火竜なら、溶岩には親しみ深いだろう」
「意味がわかりません」
「わからないなら、わからないでいい。資料は頭に入れておけ」
「……わかりました」
レオノーラは資料を開いた。
余計なことは考えなくていい。指示されたことだけを行う。
一枚一枚目を通していき、最後の一冊を閉じた。
「――十日後までは、何をしても自由でしょうか」
「ああ。だが、予定は厳守だ」
「大丈夫です。もう覚えました」
シグヴェルトの手が、書類をめくる途中で止まった。
初めて、驚きのようなものが見えた。
「……751年3月に観測された異常観測温度は?」
「地表溶岩の温度1800度。観測史上二番目です。観測史上一番は716年8月の2400度」
シグヴェルトは数秒、レオノーラの顔を見つめた。
「……なるほど。官僚たちは、今頃ひどく嘆いているだろうな」
納得してくれたらしい。
「それではこちらの書類の整理を手伝わせていただいてもよろしいでしょうか? それとも、何らかの秩序があってこの状態に?」
「いや、混沌だ」
――混沌。
なるほど、その例えは的確だ。乱雑に積まれた紙の束は、秩序の欠片もない。
「やりたいのなら好きにしろ」
「承知しました」
レオノーラはすぐに最も近い山へ手を伸ばした。
まず、表紙の日付と提出期限を確認し、すでに期限を過ぎているものと、今日中に処理すべきもの、それ以外のものを分けていく。
続いて中身へ目を通すと、シグヴェルトの署名だけで処理が終わる書類もあれば、予算と支出の数字が一致していないもの、必要な資料が添付されていないものもあった。同じ事故について複数の部署が別々の報告書を提出している例も多い。
(……無駄が多すぎる)
レオノーラは必要な箇所へ印をつけ、処理のためのメモを付けた。
署名が必要な書類はシグヴェルトの机へ運ばれ、不備のあるものは作成した部署へ戻っていく。重複していた報告書は一つにまとめ、埋もれていた緊急案件も掘り起こした。
書類の山が低くなって机の端が見えた瞬間には、胸に小さな喜びが湧いた。
途中何度もシグヴェルトの視線を感じたが、レオノーラは顔を上げなかった。
いまはひたすら仕事がしたい。
仕事に没頭していれば、辛いことも、不安も忘れられるから。
「――レオノーラ」
初めてまともに名前を呼ばれる。
顔を上げると、シグヴェルトはどこか楽しそうな顔でこちらを見つめていた。
「……なんでしょうか」
「しばらくは、私の専属秘書となれ」
レオノーラは困惑した。
公爵閣下の秘書や側近など何人もいるはずなのに、どうして自分を引き上げようとするのか。
しかし、拒否する必要もない。
眷族などというわけのわからない立場より、秘書のほうが自分を納得させやすい。
王国魔術総監である彼の下でなら、いくらでも仕事が降ってきそうだから。
「承知しました」




