02 眷属契約
――冷たい。
最初に感じたのは、石の冷たさだった。
重い瞼を持ち上げると、黒ずんだ石の天井が見えた。王宮の大広間を飾っていた眩いシャンデリアも、磨き上げられた大理石の床もない。
湿った空気と、どこかで水滴が落ちる音。
鉄格子の向こうでは、壁に掛けられた灯が青白い光を放っている。
「……ここは」
身を起こそうとした瞬間、手首に鋭い痛みが走った。
両腕には銀色の枷が嵌められていた。足首にも同じものがある。鎖こそついていないが、身体が鉛のように重く、指先にさえ力が入らない。
まだ舞踏会で着ていた深紅のドレスのままだった。裾は煤で汚れ、あちこちが焦げている。
炎の記憶はまだ新しい。怒りで目の前が真っ赤に染まって、それに呼応するようにあちこちの火が激しく燃え上がった。
あれは、自分のせいなのか。
――まさか。
自分にあるのは、誰もが持つ程度のわずかな魔力だけだ。
あんな大それたことができるはずもない。
その瞬間、奇妙なものが目に入った。
「何……?」
手首の枷の銀色の表面を、青白く輝く細い線が走っている。
一つではない。
幾重にも絡み合った線が枷を覆い、そこから細い光の糸が伸びていた。光はレオノーラの腕を伝い、胸元へ入り込み、身体の奥深くにある何かへ巻きついている。
目を閉じても消えない。
鉄格子にも、壁にも、床にも同じものが見えた。
複雑に入り組んだ光の線と、無数の文字と図形。
「……これは、なに……?」
地下牢にレオノーラの声だけが響く。誰も教えてはくれない。
だが、奇妙な既視感があった。
(書類の山に、似ている……)
早急に処理しなければならない書類の山。
どの書類がどこから届き、誰の確認を経て、どこへ送られるべきなのか。
山だけ見ると疲労感しかないが、一枚ずつ確認すれば理解できる。そういうものに。
レオノーラは枷へ顔を近づけた。
光の流れは三重になっていた。
それらが、要となる一点で結びついている。
ここを外せば、解けるのではないか?
レオノーラは、枷に刻まれた細い線へ指を触れた。
その瞬間、触れた場所が赤く光る。
流れを少しだけ横へ逸らし、閉じられた門の鍵を、内側から回すように。
かちり。
小さな音がしたような気がした。それと同時、手首を締めつけていた枷が床へ落ちた。
「外れた……?」
レオノーラは自分の手を見つめた。
続いて足首の枷へ手を伸ばし、先ほどと同じように光の流れを辿り、要となる一点へ触れる。
――鍵を回すように。
青白い光が揺らぎ、枷が外れ、身体を押さえつけていた重さが消えた。
(できる……できるわ)
レオノーラは立ち上がり、鉄格子へ歩み寄った。
扉にも同じような光の線が絡みついている。
先ほどより複雑だが、基本の形は同じだった。
流れを辿り、力が集中する場所を探す。
その一点へ、指先でわずかな歪みを加えれば――
「そこを崩すのか」
不意に声が響き、レオノーラは弾かれたように顔を上げた。
鉄格子の向こう――地下牢の薄暗い通路に、長身の男が立っていた。
黒い外套。長い銀の髪。青い目。そして、恐ろしいほど整った容貌。
シグヴェルト・エルダーシュタイン。
「エルダーシュタイン公爵……いつから、そこに」
「お前が一つ目の封印を外した頃からだ」
「最初からではないですか」
シグヴェルトは浅く笑い、鉄格子の前まで歩み寄った。
その視線が、床へ落ちた枷と、レオノーラの指先を順番に見る。
「大したものだ。その封印、並の魔術師なら、構造を理解するだけで数日はかかるぞ」
「…………」
シグヴェルトが鉄格子越しにレオノーラを見つめた。
「魔術教育を受けたことは?」
「……ありません」
シグヴェルトは何も言わなかった。
ただ、値踏みするようにレオノーラの頭から足先までを眺めている。
不躾な視線に、レオノーラは眉を寄せた。
「泥を被った火竜のような女だな」
「は?」
あまりにも意味のわからない言葉に、怒ることさえ忘れた。
シグヴェルトは鉄格子へ手を置いた。
「私のものになれ」
レオノーラは目を瞬いた。
そして、シグヴェルトを睨む。
「……ふざけないで」
冗談にしても、悪趣味が過ぎる。
そして意味がわからない。
彼とは数度挨拶を交わしただけだ。
この申し出が身勝手な恋情によるものか、それともレオノーラからまだ何かを奪おうとしているのかすら、わからない。
拒否されても、シグヴェルトの表情は変わらなかった。
「お前に拒否権はない」
「…………ッ」
「いま、お前が置かれている状況は理解しているか? 魔力を暴走させ、王宮に火を放ち、多くの貴族、王太子、そして家族を害そうとした、未熟な魔術師――」
シグヴェルトが鉄格子に力を込めた瞬間、銀色の光が走り、重い音を立てて扉が開いた。
彼が、牢の中へ足を踏み入れる。
「私がいなければ、あの場にいた者は全員死んでいた。王都が焼け落ちていた可能性もあるな」
「そんな……」
「選べ。この地下牢で封じられたまま生涯を終えるか。このまま処刑されるか。それとも、私に引き渡されるか」
シグヴェルトが、片手を差し出した。
「ここから出たいのなら、私のものになれ」
「…………」
――選ぶ余地なんてない。
レオノーラは差し出された手へ、自分の手を重ねた。
次の瞬間、シグヴェルトの指が逃がさぬように強く閉じられた。
「…………っ!」
手の甲に焼けるような痛みが走る。骨の内側を熱い針でなぞられるような感覚の中、赤い光と黒い光が絡み合い、皮膚の上へ複雑な紋様を描いていく。
翼を広げた竜を、黒い輪が取り囲むような紋章が、レオノーラの手の甲にくっきりと刻まれていた。
「これは……」
「私の眷属の証だ。これにより、お前はもう好き勝手に力を使えない」
シグヴェルトはレオノーラの手を離した。
手の甲に刻まれた紋章が、脈打つように一度だけ赤く光る。
「自由になりたければ、自らを律せるようになれ。火竜」
「……レオノーラです!」




