01 我慢をやめたとき
「……何故、殿下の隣に、妹がいるのですか?」
レオノーラは動揺を抑えようとしたが、問いかける声には震えが混ざっていた。
王宮の大広間には、まばゆい光があふれている。
巨大なシャンデリアに、磨き抜かれた大理石の床。色鮮やかな正装に身を包んだ貴族たちの誰もが、王太子ルシアンと、その隣に寄り添う可憐な令嬢を見ていた。
淡い桃色のドレスを着た、金髪の美しい令嬢――フィオナ。
クラウゼン伯爵家の長女レオノーラの、血の繋がった実の妹。
フィオナの胸元では大粒の真珠が揺れ、愛らしい顔いっぱいに笑みを浮かべている。とても、幸福そうに。
その真珠の首飾りは、王家の至宝だ。式典の時などに、王太子の婚約者であるレオノーラに貸し与えられるものだ。
それがいま、フィオナの元で輝いている。
レオノーラは黒に近い緑のドレスを身に着けていた。髪も黒く、目も黒に近い赤。華がないと家族からよく言われた。
フィオナが春の女神のようだと称えられる時、レオノーラには何の形容詞も与えられない。
仕事だけはできるけれども、地味で、真面目で、面白みに欠ける。それがレオノーラへの評価だ。
そしていま、春の女神は王太子の腕に手を添え、自分こそが婚約者であるかのように微笑んでいる。
レオノーラは、たまらず二人の前へ進み出た。
ドレスの裾をつまみ、王太子へ一礼する。
「……ごきげんよう、ルシアン殿下。フィオナも」
「ああ、レオノーラか」
ルシアンは平然と応じる。やましいことなど何ひとつないように。
レオノーラは指先に力を込め、震えそうになる声を抑えた。
「――何故、殿下がフィオナのエスコートをされているのでしょう?」
私的な集まりならまだいい。だが、今夜は王宮の公式な舞踏会。そこに他の女性をエスコートするのは非常識だ。
ルシアンは困惑したように眉を寄せた。
「――何故、と言われてもな。婚約者を伴うのは当然のことだろう」
「……婚約者……?」
すうっと血の気が引いていく。
彼は何を言っているのだろう。
ルシアンの婚約者はレオノーラだ。生まれてすぐに決められた政略結婚とはいえ、申し込んできたのは王家側からだ。
なのに、フィオナを見つめるルシアンの表情は柔らかく、長年婚約者だったレオノーラには一度も向けたことのない眼差しをしていた。
「僕はフィオナを愛しているんだ。愛し合うものが結ばれるのが、もっとも自然なことだろう?」
さも当然のように言い、フィオナが恥じらうように目を伏せる。その口元には、喜びの笑みが浮かんでいた。
恥じる様子も、申し訳なく思う様子も一片もない。
(どういうこと……?)
――まるで、たちの悪い夢を見ているかのようだ。
愛、だなんてこの結婚に必要はない。両家の間で正式に取り決められた契約だ。
クラウゼン伯爵家の娘なら誰でもいいわけではない。
女王の長男と、クラウゼン伯爵家の長女と決定している婚約。
それが何故か、いつの間にか妹にすり替わっている。
レオノーラは何も聞かされていない。王宮と伯爵家を往復して過ごし、王太子妃としての教育を受け、政務の補佐としても働いていたというのに。
何も知らない。
「――ルシアン王太子殿下」
やってきたのは、自分たちの父であるクラウゼン伯爵だった。
レオノーラは縋るように父を見た。
父なら、恋に浮かれた二人を諫めてくれるはずだ。たとえ普段は妹の方を可愛がっている父でも、伯爵家の当主として、厳格に――……
だが父は、ルシアンとフィオナの前で満足そうに微笑んだ。
「ルシアン王太子殿下。今宵はフィオナをお伴くださり、ありがとうございます」
「うむ。随分と待たせてしまったが」
「何をおっしゃいます。こうしてお二人が並ばれると、実にお似合いだ。王家と我がクラウゼン家にとっても、これ以上喜ばしい縁はあるまい」
レオノーラは愕然と父を見つめた。
諫めない。驚きもしない。喜んでいる。心の底から。
「……お父様……これは、どういうことですか」
父は眉をひそめた。
「どういうことも何も、殿下の婚約者をフィオナへ変更するのは決まっていたことだろう」
「…………」
知らない。そんな話は、聞いていない。
「正式に決定したのは三か月ほど前だが、それ以前から決まっていたようなものだ」
「…………」
――知らない。
レオノーラはずっと、王太子妃に相応しくあるように、そしていずれ王妃として勤められるように、ずっと努力してきたというのに。
そんな努力は必要ないと、誰も言わなかった。
誰も。
そして、衆目の前で見世物のようにされている。
貴族たちは美しい二人を「お似合いです」と祝福し、道化のレオノーラを「お可哀想に」と憐れみながら笑っている。
どうして、どうして、こんな仕打ちを受けなければならないのか。
レオノーラは震える手をぎゅっと握りしめた。
「――ですが、フィオナには何の教育も……」
王妃教育はもちろん、令嬢としての必要な教育だって。フィオナはいつも甘やかされて、可愛がられて、厳しい教育なんて受けたことはないのに、王太子妃が務まるわけない。
父は言った。
「だから、お前が支えてやるのだ。お前は昔から、表に立つより、フィオナを守るほうが向いているからな」
「……え?」
父は何を言っているのか。
理解を拒むレオノーラの前で、ルシアンが頷く。
「うむ。僕からも頼む。これからは王太子妃の侍女として、フィオナを陰から支えてやってくれ」
「ええ。お姉さまがそばにいてくだされば、わたし、きっと立派な王太子妃になれるわ」
フィオナが美しく微笑む。
――皆、いったい、何を言っているのか。
レオノーラが必死で守ろうとした王太子妃の地位は妹へ。
愛も、称賛も、栄光も、妹へ。
レオノーラは陰となって、これから一生妹を支えろと――そう言っている。
「…………」
これまで、クラウゼン伯爵家の長女として、王太子の婚約者として、血の滲むような思いをしながら必死に頑張ってきた。いずれ王妃になるために。
だが、その道は断たれた。
――そのまま全部無駄になるのなら、まだよかった。
父と、いずれ父の跡を継ぐ幼い弟の補佐をしながら、他の貴族男性と結婚する。それはみじめな結末かもしれないが、新たな幸せを見つけられたかもしれない。
――だが。
これからは、学びの成果や能力を、妹のために使うことを求められる。
華やかに笑う妹を、王妃として称えられる妹を、一生陰で支え続ける。
姉だから? 長女だから? 地味で、つまらないから?
胸が、軋んだ。
――ふ ざ けるな。
ぱちり、と小さな音がした。
刹那、会場の中央にあるシャンデリアの炎が、激しく揺らめいた。
それだけではない。大広間を照らすすべての炎が、天井へ届かんばかりに一気に燃え上がる。壁際に並んだ燭台からも炎が噴き出し、長い舌のようにあちこちへ伸びる。
あちこちから悲鳴が上がる。逃げ惑うもの、立ち竦むもの、床に伏せるもの。
空気が熱を帯び、大理石の床に赤い亀裂が走る。
「なんだこれは?!」
ルシアンの叫びが聞こえる。
「きゃああああ!!」
フィオナが悲鳴を上げ、ルシアンの背後へ隠れる。その声に反応するように、炎が二人へ向かって大きくうねった。
その瞬間。
背後から伸びた腕が、レオノーラの腰を強く抱き込んだ。
逃れようと身を捩ったが、腰に回された腕はびくともしない。
手袋に包まれたもう一方の手が、レオノーラの両目を覆った。
「見るな」
その声は氷のようで、目元を覆う手もまた、凍えるほどに冷たい。
「――いまのお前が見れば、すべてを燃やすぞ」
この声を、レオノーラは知っていた。
言葉を交わしたことはほとんどない。けれど、何度か挨拶をしたことがある。
王国魔術総監にして、女王の異母弟。
あらゆる魔術師の頂点に立ち、人々から畏怖を込めて『黒杖卿』と呼ばれる男――シグヴェルト・エルダーシュタイン。
――その次の瞬間、意識が途切れた。




