26 女王の怒り
王太子の宣言に、どこかで誰かが息を呑んだ。
レオノーラはフィオナを見た。淡い桃色のドレスを着た妹は、真っ青な顔でルシアンを見つめている。
やはり、第二夫人にされることなど何も聞かされていなかったのだ。
騒然とする大広間の中で、ルシアンだけが晴れやかな顔をしていた。
「――ルシアン。誰が、その話を認めたのです」
女王の低い声が響く。
「母上です。レオノーラを王家に戻すには、これが最善ですから」
女王の表情から、感情が消えた。
その変化にも気づかず、ルシアンはフィオナへ手を差し伸べる。
「フィオナも心配する必要はない。第二夫人となっても、僕の愛は変わらないよ」
フィオナは差し出された手を見つめた。
その顔は青ざめていたが、怯えているだけではなかった。
――怒り。そして、決意。フィオナは腹部へ両手を添え、はっきりと告げる。
「嫌です。わたしは、第二夫人になんてなりません。わたしのお腹には、ルシアン様の子どもがいるんです!」
叫びが大広間へ響き渡った瞬間、重い沈黙が訪れた。
レオノーラも言葉を失っていた。
(身籠った……ですって……?)
――いつの間に?
フィオナはルシアンの婚約者となっているが、正式に婚姻契約を結ぶまで婚前交渉は認められていない。
「フィオナ、それはまだ言うなと……」
そこまで言って、ルシアンが口を閉ざす。
けれど、もう遅かった。
「――まだ言うなと?」
女王の声が、静まり返った広間へ落ちた。ルシアンの顔から血の気が引く。
「ルシアン。あなたは、妊娠を知っていたのですね」
「母上、これは……」
女王はフィオナの方に視線を移す。
「フィオナ嬢。いつ妊娠を知りましたか」
「一か月ほど前です。食事の匂いで気分が悪くなり、医師に診てもらいました。ルシアン様にも、すぐにお伝えしています」
フィオナは顔を上げて、堂々と言った。
「ルシアン様は喜んでくださいました。わたしと子どもを守ると、おっしゃったのです」
まるで勝利宣言のように言う。
周囲が眉を顰めていることになど気づきもしていない。
レオノーラも絶句していた。
そして、納得した。
だから、ルシアンはフィオナを第二夫人にすることへ、あれほどこだわっていたのか、と。
レオノーラは、頭の中から妊娠に関する知識を引っ張り出す。
つわりが始まるのは、早ければ妊娠五週目ごろから。そしてフィオナは、一か月ほど前から身体の異変を感じていたという。ならば、少なくとも二か月近く前には、二人は既に関係を持っていたことになる。
――レオノーラの脳裏に、あの舞踏会の夜が浮かんだ。
ルシアンがフィオナを選び、婚約者を変更すると告げた夜。あのときには、とっくに――……
レオノーラの胸の奥に浮かんだのは、悲しみでも、怒りでもない。
――気持ち 悪い。
「も、もちろん、君を守るつもりだ」
ルシアンが言い訳するように答えると、フィオナは鋭く見返した。
「では、いまここで、正妃にしてくださるとはっきりとおっしゃってください」
ルシアンの口の動きが止まる。未来を約束する言葉の一つも、すぐには言わない。
そのことで、フィオナの顔から少しずつ期待が消えていく。
期待が失望となり、憎しみに変わっていく。
他の誰にでもなく、レオノーラに対しての。
「……お姉さまがいるから……? お姉さまの、何がそんなに大事なの?!」
フィオナの声が大広間へ響き渡る。
「地味で、つまらなくて、王太子妃にはふさわしくないとおっしゃっていたじゃないですか! ルシアン様!!」
「フィオナ……!」
「――そこまでです」
女王の声が、静かに、そして重く響く。
ルシアンは顔を青ざめさせて女王を見る。
「――ルシアン。あなたは、婚姻前にフィオナ嬢を身籠らせ、その事実を報告しなかった。そのうえ妊娠を伏せたまま、本人たちの承諾も、女王である私の許可も得ず、正妃と第二夫人を決めて勝手に宣言した――そういうことですね?」
「僕は、全員にとって最善の方法を選んだだけです」
「あなた一人にとって、都合のよい方法の間違いでしょう」
冷たい声だった。
「王太子の婚姻も、その子の存在も、王位継承に関わる問題です。あなたの私事ではありません」
女王は側近へ視線を向けた。
「侍医を呼びなさい。フィオナ嬢は控室へ案内し、妊娠の事実と月数を確認するように。クラウゼン伯爵夫人、あなたは娘に付き添いなさい」
「は、はい、陛下」
母が慌ててフィオナへ近づいた。
「わたしは悪くありません。誰にも言うなと命じたのは、ルシアン様です。わたしは、ルシアン様を信じただけです」
「責任については、後ほど改めて確認します」
拒絶を許さない声音だった。
フィオナはなおも不満そうにしていたが、母と女官たちに促され、大広間を出ていった。
最後まで、レオノーラへ向ける視線には恨みが残っていた。
「ルシアン。あなたも別室へ行きなさい」
「母上……」
「陛下と呼びなさい」
「母上は、レオノーラを王家へ戻せとおっしゃったではありませんか! 僕は、最善の方法を考えたのです!」
「……あなたは、随分と自分に都合の良いように、私の言葉を歪めたようですね」
女王は小さくため息をつき、レオノーラを見つめた。
「レオノーラ嬢。あなた自身の意思を確認します。ルシアンの妃となることを望みますか」
広間の視線がレオノーラに注がれる。レオノーラは、迷わなかった。
「望みません。王太子殿下の妃となることは、謹んでお断り申し上げます」
「レオノーラ!」
ルシアンが声を上げる。
「君は、自分が何を捨てようとしているのかわかっていない。王太子妃になるために、ずっと努力してきたのだろう!」
確かに、そうだ。
物心ついた時から、ずっとルシアンの隣に立つために努力してきた。
だが、いまならわかる。
レオノーラの知っていた世界は、とても狭く、厳格で、失敗が許されず――暗い檻のようだったと。
いまここで王太子の婚約者に戻ると決めたらどうなるだろう。
――檻の中に戻るようなものだ。
それが幸せというものだと、人生安泰だと思う人間もいるかもしれない。
――だが、信じることのできない、尊敬することもできないルシアンの隣で、自分を殺して生きていくことはもうできない。
レオノーラは自分の力を知った。自分の気持ちを知った。自分の行動で、変えられるものがあるのだと知った。守れるものがあるのだと知った。
レオノーラはルシアンを見つめた。
「昔は、その未来しか知りませんでした。あなたの隣に立つものとして、どうあれば相応しくなれるかだけを考えてきました」
「そ、それでいいではないのか……?」
「いいえ。いまのわたくしは、外の世界を知りました。わたくしはもう、あなたの隣に何の未練もありません。どうぞ、お幸せに」
ルシアンは信じられないものを見るように、レオノーラを見つめた。
「――お、叔父上に、何を吹き込まれたんだ!」
「連れていきなさい」
女王が命じると、近衛騎士がルシアンの両側へ進み出た。
「母上!」
「これ以上、今宵の功績者を侮辱することは許しません」
ルシアンはなおもレオノーラを見ていた。最後には考えを変え、自分のもとへ来ると信じているような目で。
そのまま近衛騎士に促され、ルシアンは別室へ連れていかれた。
大広間の扉が閉じる。
残された招待客たちは、互いの顔を見ながらも、声を発することができずにいた。
女王はしばらく閉じた扉を見つめたあと、広間へ向き直った。
「王家の者が祝いの場を私事で乱したことを、心よりお詫びします」
女王がわずかに頭を下げる。
「祝宴は予定どおり続けます。演奏を」
指揮者が杖を上げる。
最初の音が、重く沈んでいた広間へ流れ始めた。祝いのために用意された舞曲だった。
「顕彰を受けた功績者による、開宴の舞にございます」
侍従の声に、招待客たちの視線が再びレオノーラへ集まる。
――あれほどの騒動の直後に、踊れるだろうか。
そう思ったところへ、シグヴェルトから手が差し出された。
「踊れるか」
低い声で尋ねられる。
レオノーラは差し出されたシグヴェルトの手を見つめ、顔を上げた。
「……はい」
自分の意思で、その手を取る。
二人で広間の中央へ進むと、シグヴェルトの手がレオノーラの腰へ添えられた。
「力を抜け」
「抜いております」
「硬い」
先ほどあんな騒動があったのに、シグヴェルトは何も変わらない。
いつも通りの顔、いつも通りの声、態度。
それが、レオノーラの強張っていた肩を緩める。
レオノーラは力を抜き、シグヴェルトの導きに身を任せた。
二人の足が音楽へ重なり、ドレスが広がる。
裾が魔導灯の光を受けて炎のように揺れた。シグヴェルトの正装に施された銀糸が、その炎を縁取るように輝く。
少し離れた場所では、首飾りをつけたティアが、用意された果物を前に翼を動かしていた。
招待客たちの視線は、いつしか広間の中央で踊る二人へ集まっている。
「レオノーラ」
名を呼ばれ、レオノーラは顔を上げた。
シグヴェルトは、いつもの無愛想な顔でレオノーラを見つめていた。
けれど、その目は不思議なほど穏やかだった。
「お前は、美しいな」
次のステップが頭から飛んで、危うく足を踏みかけた。
「な、なにを――」
「思ったことを言っただけだ」
シグヴェルトはどこか楽しそうに言う。
「己の力で立ち上がるところも、怒りを燃やすところも、俯いたあと、再び顔を上げるところも。すべて好ましい」
「…………」
これは、口説かれているのか、褒められているのか、悩ましかった。
――けれども。
シグヴェルトの言葉の一つ一つが、レオノーラの胸に熱を持って刻まれていった。




