21 王太子の訪問
翌日、レオノーラは王国魔術院の執務室で、祝賀会に関する資料を確認していた。
当日の進行表。女王へ提出する火山鎮静の概要。招待客から質問を受けた場合に備えた想定問答。
頭にはすべて入っている。
それなのに、どうにも集中できない。
気がつけば、同じ文章を三度も読み返していた。
レオノーラは小さく息を吐き、書類を机へ置いた。
昨日のダンス練習が頭から離れない。
特に、自分の胸に浮かんだ、あまりにも不適切な感想が。
――かわいい。
「…………」
レオノーラは勢いよく次の書類を開いた。
考えてはいけない。
シグヴェルトは女王の弟であり、王国魔術総監であり、王国最強の魔術師である。
自分を眷属にした、横暴で恐ろしい男でもある。
かわいいなどという言葉が当てはまるはずがない。
「きゅう?」
机の端に座っていたティアが、首を傾げた。
「何でもありません」
「きゅ?」
「本当に、何でもありません」
ティアは納得していないようだったが、机の上に置かれていた林檎へ興味を移した。
その様子を見ているうちに、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきた魔術院の職員が、胸元へ手を当てて一礼する。
「――祝賀会について打ち合わせをしたいと、王宮からお客様がお見えです」
「王宮から?」
「はい。応接室でお待ちいただいております……」
祝賀会の進行を担当する式部官だろうか。それにしても、なんというか歯切れが悪い。
シグヴェルトは別室で、魔導具管理部門との会議に出ている。
先に話を聞き、必要な内容を整理しておけばよい。秘書なのだから。
「わかりました。すぐに参ります」
レオノーラが立ち上がると、ティアも当然のように肩へ飛び乗った。
廊下へ出て応接室へ向かう。
扉の前には、王宮の制服を着た近衛騎士が二人立っていた。
式部官の護衛にしては大げさな気もしたが、女王の使者であれば不思議ではない。
レオノーラは騎士へ一礼し、応接室の扉を開いた。
「お待たせいたしまし――」
言葉が止まった。
窓辺の長椅子に腰掛けていた人物が、ゆっくりと顔を上げる。
金色の髪。整った顔立ち。王族だけが身につけることを許された、青と金の正装。
王太子ルシアンだった。
「久しぶりだね、レオノーラ」
あまりにも穏やかに声をかけられ、レオノーラの思考が一瞬止まる。
なぜルシアンが魔術院にいるのか。
祝賀会の打ち合わせとは何だったのか。
事前の連絡もなく、なぜ自分を呼び出したのか。
どうして魔術院職員は、相手が王太子だと伝えなかったのか――きっと口止めされたのだろうが。
疑問はいくつも浮かんだが、まずは礼を取った。
「王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「そう堅くならなくていい。今日は公式な訪問ではないんだ」
それならばいますぐ退室してもいいだろうか。
いや、魔術院の人々に迷惑をかけるわけにはいかない。
自分に用があるのは明白だ。ならば、自分で対応する。
レオノーラは向かいの椅子へ腰掛けた。
ティアは肩の上からルシアンを見つめ、落ち着かなさそうに尻尾を揺らしている。
「祝賀会についてのお打ち合わせと伺いましたが」
「ああ。それもある。だが、その前に話しておかなければならないことがある」
ルシアンはわずかに身を乗り出した。
「以前送った手紙についてだ」
「お返事をしたはずです」
「ああ、勿論読んでいる。けれど、僕たちの間に認識の違いがあるなら、それを直接確かめ合うべきだろう。文面だけでは、どうしても齟齬が生じるからね」
ルシアンは小さく肩を竦めた。
「齟齬はございません。殿下が、わたくしとの婚約を戻すおつもりであることは理解しております」
「それなら話は早い」
ルシアンの顔が明るくなる。
「僕が間違っていたんだ、レオノーラ。僕は、君もフィオナも幸せにする義務がある。君は僕の正妃として能力を発揮し、フィオナは僕を癒す。みんなが幸せになれる唯一の方法だ」
まるで、難しい問題への最善策を提示したかのような口ぶりだった。
「母上も、君が王宮へ戻ることを望んでいる。伯爵も安心するだろうし、フィオナも姉がそばにいれば心強いはずだ」
「――王太子殿下」
レオノーラはゆっくりとルシアンの目を見つめた。
「フィオナにはちゃんと説明しているのですか? もしも、わたくしが正妃になるとして、あの子は納得しているのですか?」
「も、もちろんだとも」
――嘘だ。
彼は、レオノーラにも、フィオナにも、それぞれに都合のいいことを言っている。
その方が、自分にとって都合がいいから。
「殿下は、わたくしが戻れば皆が助かるとお考えなのですね」
「そのとおりだ。ようやくわかってくれたか」
「わたくしは、王太子妃へ戻るつもりはございません」
ルシアンの目が見開かれる。
「まだ誤解しているようだ」
「いいえ。殿下のお考えは、充分理解できていると思います」
「――君が魔力を暴走させた理由は、僕にもわかっている。突然、僕に捨てられたと思い、悲しみに耐えられなかったのだろう」
レオノーラは言葉を失った。
「事前に説明しなかったことは悪かった。君があれほど僕を想っているとは、僕も理解していなかったんだ」
「違います」
「無理に隠す必要はない」
ルシアンは、傷ついた者を宥めるような目をしていた。
その眼差しを見ているうちに、レオノーラの胸の奥へ、あの夜とよく似た熱が生まれた。
ただ今度は、炎となって溢れ出す前に、言葉へ変えることができる。
「――わたくしは、殿下に捨てられることが悲しかったのではございません」
レオノーラは、膝の上で両手を重ねた。
「わたくしを散々蔑ろにしてくださったことに、いままでにない怒りを感じたのです」
「怒り……?」
ルシアンの顔に、理解できないものを見たときの表情が浮かぶ。
「婚約者を変更すると決めたのに、わたくしへ知らせなかったこと。わたくしが王太子妃になるために積み上げたものを、当然のようにフィオナへ譲らせようとしたこと。婚約を解消したあとも、わたくしなら殿下とフィオナを支え続けるとお考えになったこと――そのすべてに怒ったのです」
ルシアンは首を傾げた。
本気で何を言っているのか理解していない顔だ。
「だが、君はフィオナの姉だろう」
――また、それだ。
「それが、わたくしの人生を差し出す理由になるのですか?」
「そんなことは言っていない。王太子妃の補佐を頼んだだけだ」
言葉を重ねても、どこまでも噛み合わない。
ただ先に生まれただけなのに、どうして『姉』という役割を強制され続けるのだろう。
姉だから、長女だからと、どうして何もかも差し出させようとするのだろう。
どうして自分の意思を示しても、誰もわかろうとしてくれないのだろう。
「……殿下は、いまも同じです」
「何がだい?」
「わたくしがどう感じたかを、わたくしへ尋ねずに決めておられるところです」
ルシアンの表情が曇る。
「僕はいつだって、君のためを思っている」
レオノーラは静かに首を横へ振った。
「ならば、わたくしの選択を聞いてください。わたくしは、殿下の婚約者へ戻りません」
応接室に沈黙が落ちた。
ルシアンは、レオノーラが冗談を言っているのではないかと確かめるように、その顔を見つめていた。
やがて、視線がレオノーラの左手へ落ちる。赤い竜を黒い輪が囲む、眷属の紋章に。
「もしかして、叔父上に命じられているのかい?」
「違います」
どうしてそんな発想になるのか。
「叔父上に意思を操られているのではないか? 君にはわからないだけかもしれない。叔父上は王国でもっとも優れた魔術師だ」
レオノーラの返事が、自分の望んだものではないから、それはレオノーラの意思ではない。シグヴェルトに洗脳されている。
ルシアンはそう考えているのだろう。
「王宮へ戻れば、契約を解除する方法も探せるはずだ」
ルシアンが立ち上がり、レオノーラへ手を伸ばした。
「さあ、僕と来るんだ」
その手が触れるより先に、レオノーラは椅子から立って距離を取る。
「殿下、落ち着いてください」
「僕はずっと落ち着いている。おかしくなっているのは君だ」
こちらに向かってこようとするルシアンに向けて、肩にいたティアが翼を大きく広げた。
「グルル……」
小さな喉から漏れたとは思えないほど、低い唸り声。
ルシアンの顔から、穏やかな表情が消えた。
「――邪魔を、するな……!」
――そのとき、応接室の扉が開いた。
室内の空気が、一瞬で冷える。
振り返らなくても、誰が入ってきたのかわかる。
「何をしている」
低い声とともに、シグヴェルトが室内へ入ってきた。




