17 【sideフィオナ】涙
王国魔術院を出てから、フィオナはずっと泣いていた。
母の肩へ顔を伏せ、膝の上でハンカチを握りしめる。涙はなかなか止まらず、せっかく整えてきた化粧も、きっとひどいことになっているだろう。
向かいに座る父は、窓の外を睨むように見つめていた。
その隣では、エリアスが落ち着きなく身体を動かしている。
「ティア、格好よかったなあ」
「エリアス」
父が低い声で窘める。
エリアスは一度口を閉じたものの、興奮を隠しきれない様子だった。小さな竜を腕に乗せたときの感触を思い出しているのか、何度も自分の手を見つめている。
「レオノーラ姉上、本当に火山から竜を作ったんだよ。すごいよね」
「エリアス、いまはその話をする時ではありませんよ」
母が優しく注意すると、エリアスは不満そうに唇を尖らせた。
「でも――」
「黙っていなさい」
今度こそ父に強く叱られ、エリアスは俯いた。
馬車の中に、重い沈黙が落ちる。
フィオナは母の肩へ顔を押しつけたまま、唇を噛んだ。
弟まで、姉の味方をする。自分がこんなに傷ついているのに。
確かに、あの竜は、目を奪われるほど不思議な生き物だった。
宝石のような鱗。炎を思わせる翼と尾。小さな身体でありながら、竜らしい威圧感があった。
そして、あの竜はずっと姉のそばにいた。
姉の肩へ乗り、髪に隠れ、庇うように翼を広げていた。
フィオナは、手の中のハンカチをさらに強く握る。
「あなたは何も悪くないのよ」
母が背を撫でながら、囁くように言った。
「でも、お姉さまは……」
「レオノーラは、まだ気持ちの整理がついていないのよ」
「わたし、お姉さまを傷つけるつもりなんてなかったの」
「わかっているわ。好きになった人と心を通わせたことは、罪ではないもの」
「……はい」
そうだ。フィオナは何も悪くない。
ルシアンを好きになって、ルシアンもフィオナを好きになってくれた。
ただ、それだけのことだ。
人を好きになる気持ちは、誰にも止められない。
それなのに、お姉様は突然怒った。
舞踏会の最中に炎を出し、ルシアンの謝罪を拒絶し、家族まで遠ざけた。
「……お姉さまは、わたしを嫌いになったの?」
「そんなことはないわ」
母は迷うことなく答えた。
「あなたたちは姉妹なのよ。レオノーラだって、本当はあなたを大切に思っているわ」
だが、フィオナが困っているのに、姉は助けないと言った。
そんなことは、いままで一度もなかったのに。
家庭教師からの課題が終わらなければ、手伝ってくれた。
礼儀作法の時間に失敗すれば、先生へ上手く取りなしてくれた。
欲しいものが重なったときには、いつだってフィオナへ譲ってくれた。
菓子も、宝石も、ドレスも。
フィオナが欲しいと言えば、姉は少し困った顔をしたあとで、最後には必ず渡してくれた。
それが当然だと思っていた。
姉は、何でも持っていたから。
勉強ができて、礼儀作法も完璧で、父から仕事を任され、教師たちからも褒められていた。
王太子妃になるための教育を受け、いずれは王妃になることまで決まっていた。
一方のフィオナは、勉強も礼儀作法も、姉ほどうまくできなかった。
難しい話はすぐにわからなくなるし、長い授業を受けていると疲れてしまう。失敗すれば叱られ、泣けば困った顔をされた。
だから、できる姉が助けるべきなのだ。
たくさん持っている姉が、持っていないフィオナへ分ける。
それは姉妹として自然なことだ。
ルシアンのことだって同じだ。
姉には、すでにたくさんのものがあった。
知識も、才能も、周囲からの信頼も、将来を支えるだけの能力もあった。
だから、ルシアン一人くらい――王太子妃の地位くらい、フィオナのものにならなければ不公平だ。
いままでの姉なら、笑って譲ってくれた。
フィオナが泣けば、困ったように眉を下げ、それでも最後には必ず望みを叶えてくれた。
――なのに。
急に助けてくれないなんて。
「公爵閣下のせいよ」
母が、フィオナの気持ちを読み取ったように言った。
「あの方が、レオノーラへ余計なことを吹き込んでいるのだわ」
「やっぱり?」
「そうに決まっているでしょう。以前のレオノーラなら、家族に向かってあんな口の利き方はしなかったもの」
――そうだ。
公爵の隣に座る姉は、以前とは別人のようだった。
公爵はずっと姉のそばにいた。家族だけで話したいと父が頼んでも席を外そうとせず、姉が拒絶の言葉を口にするたび、その選択を認めるように見つめていた。
それに、あの竜のことを語るとき、公爵は姉を誇らしげに見ていた。
――あの、女性嫌いで、氷のように冷たいと言われている公爵が。
ルシアンも、フィオナを愛していると言ってくれる。春の花のようだと、可愛いと、そばにいるだけで心が安らぐと。
けれど、公爵が姉を見る目は違っていた。姉が成し遂げたことを、自分のことのように誇っていた。
――許せない。
華やかな場所で皆の目を集めるのは、いつだってフィオナなのに。
フィオナが笑えば誰もが喜んだのに。
ルシアンも、未来の王妃としてフィオナを選んでくれた。
姉はその隣で、静かにフィオナを支えてくれていればよかったのに。
――許せない。
「うっ……」
不意に胸がむかつき、フィオナは口元を押さえた。
「フィオナ?」
母が慌てて顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「はい……少し、気分が悪くなっただけです」
「泣きすぎたのね。それに、馬車も揺れているもの」
フィオナは小さく頷いた。
最近、こうして胸がむかつくことが増えていた。
食欲がない日もあれば、反対に妙に甘いものが欲しくなる日もある。
けれど、きっと疲れているだけだ。
婚約を発表してから、あまりにも色々なことが起きた。
身体が疲れていても、無理はない。
「屋敷へ戻ったら、すぐに休みましょうね」
母はフィオナの髪を撫でた。
「レオノーラも、時間が経てば、きっと目を覚まして、自分から戻ってくるわ。あなたが本当に困っているとわかれば、放っておけるはずがないわ」
フィオナは母の言葉に縋るように頷いた。
そうだ。
少し時間が経てば、きっと以前の姉に戻る。
優しくて、しっかりしていて、フィオナが困ったときには必ず助けてくれる姉に。
だって姉は、いつだって最後には、フィオナの望みを叶えてくれた。
――だって、お姉様なのだから。




