14 王太子からの手紙
『親愛なるレオノーラへ。
僕たちの間には、少し誤解があったようだ。
長い年月をともに歩いてきた僕たちなら、言葉にしなくても理解し合えていると思っていた。けれど、どれほど近くにいても、人の心というものは時にすれ違うらしい。
フィオナとの婚約を発表した際、事前に十分な説明をしなかったことは認めよう。
突然のことで、君が動揺するのも無理はない。
だが、僕は決して君を見捨てたわけではない。
幼い頃から僕の隣にいた君を、そう簡単に切り離せるはずがないだろう。
フィオナは春の花のように無垢で、繊細で傷つきやすく、誰かが手を差し伸べなければならない女性だ。
一方で、君は強い。
どんな困難にも耐え、感情に流されず、正しい道を選べる女性だ。
僕は今になって、改めて気づいた。
僕の隣に立ち、この国をともに背負うべきなのは、君なのだと。
だからこそ、僕は誰も不幸にならない道を選びたい。
君にはこれまでどおり、僕を隣で支えてもらいたい。
そしてフィオナにも、姉として導いてやってほしい。
君ならできる。
いや、君にしかできない。
フィオナは君の妹だ。あの子が迷っているなら、手を差し伸べるのが姉というものだろう。
もちろん、君の立場を軽んじるつもりはない。
正式な妻として僕の隣に立ち、いずれ王妃となるべきなのは君だ。
君がこれまで積み重ねてきた努力も、流してきた汗も、耐えてきた孤独も、決して無駄にはならない。
フィオナには、あの子にふさわしい別の立場を与えればいい。
君は国を支え、フィオナは僕の心を癒やす。
二人とも、僕にとってかけがえのない存在だ。
舞踏会での出来事について、僕はもう君を責めるつもりはない。
あれほど感情を乱したのも、僕を失うと思ったからなのだろう。
あの炎は、君の心が上げた悲鳴だったのかもしれない。
そう思えば、僕にも理解できる。
君は昔から、素直に弱さを見せるのが苦手だった。だけどもう、意地を張る必要はない。
君の居場所は、いまも変わらず僕の隣にある。
離れてみて、初めてわかることもある。僕たちは長い間、あまりにも近くにいすぎたのだろう。
だが、一度ほどけた糸も、結び直せば以前より強くなる。
心を落ち着かせたら、王宮へ戻ってきてほしい。
君が素直に戻るのであれば、今回のことはすべて水に流そう。
僕には、君が必要だ。
僕の未来には、いまも君がいる。
フィオナも、きっと君が戻ることを望んでいる。
君なら、僕の真意を理解してくれるはずだ。
そして最後には、正しい場所へ帰ってきてくれると信じている。
僕たちが再び同じ道を歩ける日を、心から待っている。
――ルシアン』
最後まで読み終えたレオノーラは、便箋を机へ置いた。
頭が痛い。
火山の魔力を御した疲労が残っているせいだろうか。それとも、手紙の内容を理解しようとしたせいだろうか。
おそらくは、後者だった。
「……なんて、都合のいいことばかり……」
長ったらしい手紙に書かれているのは、ルシアンがフィオナを愛していること。そして、王妃として国を支える能力はレオノーラに求めているということだった。
愛はフィオナに。実務はレオノーラに。
「…………」
レオノーラは、こめかみに指を当てた。
「きゅう?」
ティアが心配そうに見上げてくる。
「大丈夫です。ただ、少し頭が痛いだけです」
答えると、ティアは机からレオノーラの腕へ移り、肩まで登ってきた。髪の中へ身体を埋めるようにして丸くなる。
小さな身体から伝わる温かさに、張りつめていた息が少しだけほどけた。
便箋へ視線を戻す。
(確かに、わたくしたちは近すぎた)
その一点だけは理解できた。
レオノーラが物心ついた頃には、ルシアンはすでに婚約者だった。
彼の好みも、苦手なものも、日々の予定も知っていた。
王宮で顔を合わせ、舞踏会では隣に立ち、いずれ夫婦となることを疑ったこともなかった。
近すぎたからこそ、互いの心の内を確かめようともしなかった。
――レオノーラは、王太子妃になるため、広い世界を知ろうとしていた。
歴史を学び、地理を学び、各地の産業や文化を学んだ。諸外国の言葉や慣習を覚え、国政に関わる膨大な資料を読み込んだ。
世界について、多くのことを知っているつもりだった。
けれど、実際にレオノーラが見ていた世界は、あまりにも狭かった。
伯爵家と王宮を往復し、ルシアンの隣に立つためだけに知識を集めていた。
――けれど、いまは。
地図の上では知っていたティレアン火山の姿を実際に見た。そこに暮らす人々の姿を見た。
王国魔術院で働き、魔術師たちと話した。巨大な竜を作り、小さな竜を連れて帰った。
舞踏会の夜から、まだひと月も経っていない。
それなのに、ルシアンの隣で王太子妃として振る舞っていた日々が、随分と昔のことのように思えた。
「…………」
――自分は変わった。その変化を、よかったと思っている。
レオノーラは便箋を折り畳み、封筒へ戻した。
机の引き出しを開ける。
中には、シグヴェルトから贈られたペンが収められていた。
火山では杖として使ったが、筆記具として使うのはこれが初めてだ。
もったいないという気持ちは、まだ少し残っている。
それでも、使わずにしまっておくために贈られたものではない。
レオノーラはペンを取り出した。
指に馴染む黒い軸を握り、用意した便箋へペン先を置く。
書き出しを考え、しばらく手を止めた。
何をどう説明するべきか。
自分が何に傷つき、なぜ戻るつもりがないのかを、理解できるよう順序立てて書くべきだろうか。
これまでのレオノーラなら、そうしていただろう。
相手が誤解しないように。相手が困らないように。相手が納得できるように。
けれど、断るために相手の納得を得る必要はない。
レオノーラは、ゆっくりとペンを動かした。
『王太子殿下へ。
お手紙を拝読いたしました。
殿下のご提案は、お断りいたします。
わたくしには王宮へ戻る意思も、殿下との婚約を再び結ぶ意思もございません。
また、フィオナの教育や殿下の政務を担うつもりもございません。
どうか今後、同様のご提案はお控えください。
――レオノーラ・クラウゼン』
書き終えた返事は驚くほど短かった。だが、伝えるべきことはすべて書いた。
ティアが肩から机へ下り、返書を覗き込む。
「これでよいのです」
「きゅう」
レオノーラは便箋を封筒へ入れ、封を閉じた。
胸の奥に、わずかな痛みはあった。
十八年続いた関係を、たった数行で終わらせようとしているのだ。
けれど、それ以上に感じたのは安堵だった。
もう、戻らなくていい。
過去はすべて置いていく。これからは、自分の人生を生きる。
――その二日後。
レオノーラが王国魔術院の執務室で火山調査の資料を整理していると、職員が慌ただしく扉を叩いた。
「レオノーラ様。ご面会を求めている方々がお見えです」
「わたくしに? どなたですか?」
職員は答えにくそうに一度口を閉じ、それから告げた。
「クラウゼン伯爵ご一家です。伯爵夫妻と、フィオナ様、エリアス様がお揃いで……」
「…………」
――過去というのは、置いていこうとすると追いかけてくるものなのかもしれない。




