12 帰還
「一度戻るか。詳細な調査はまた後日にしよう」
シグヴェルトはそう言うと、床に落ちていた鞄を手に取った。
「ま、待ってください。外の様子を一応、確認しなければ――」
レオノーラは両手の中にいるティアを落とさないよう気をつけながら、窓の外へ目を向けた。
火山は静まり、魔力の流れも正常に戻っている。けれど、ここからでは街の様子は見えない。
噴石が麓まで飛んでいっているかもしれないし、火山エネルギーが麓で溢れているかもしれない。
「麓の観測所から、すぐに報告書が上がってくる」
「……そう、ですね」
レオノーラは言葉に詰まった。
自分の目で見たいなんて、わがままなのかもしれない。責任者であるシグヴェルトが問題ないと言うのなら、従うべきなのだろう。
シグヴェルトはしばらくレオノーラを見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「少しだけだ」
黒杖が床を叩く。足元に小さな転移陣が広がり、景色が揺らぐ。
次の瞬間、急激に冷えた空気が頬を撫でた。
「……え?」
気がつくと、山腹に設けられた見晴らし台に立っていた。
観測所よりも標高の低い位置にあり、麓の街を一望できる。
一瞬めまいがして足元がふらつく。シグヴェルトの手がすぐにレオノーラの腕を支えた。
――レオノーラは、街を見た。
美しい街だった。
地熱を利用した農園の硝子屋根も、湯気を立ち上らせる温泉施設も、火山の斜面に広がる畑も、資料で見た姿のままそこにある。
突然の地震に驚いた住民たちは、建物の外へ避難していた。
家族同士で抱き合う者。地面に座り込み、火山を見上げている者。空を指さして興奮する子どもたち。
巨大な竜が火口から現れ、空へ光を吐き出す光景を、彼らも見ていたのかもしれない。
何が起きたのかわからず、呆然としている者も多い。
それでも、崩れた建物は見えない。火災も起きていない。
街は、そこにあった。
「……無事ですね」
「ああ。大きな損害はない。細かなところはまた報告書で上がってくるだろう」
シグヴェルトの手が、頭の上に置かれる。
「お前が守った」
「…………」
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
レオノーラの両手の中で、ティアが小さく身じろぎした。
「きゅう」
レオノーラは小竜を胸元へ抱き寄せた。
「今回の報告書は、お前がまとめるように」
「わたくしが、ですか?」
「ああ、任せる。提出前に私が確認する」
レオノーラはもう一度、麓の街を見る。
「……はい。承知しました」
「では、帰るぞ」
シグヴェルトが黒杖を掲げ、二人の足元を大きな転移陣が覆った。
光が視界を満たし、火山の乾いた空気が消える。
次に目を開いたとき、レオノーラは王国魔術院の総監執務室に立っていた。
出発前に整理した書棚。書類の積まれた机。床に描かれた転移陣。
どれも、見慣れた光景だ。
けれど、自分だけがひどく遠いところから帰ってきたような気がした。
「きゅう」
腕の中から聞こえた声が、現実だったのだと改めて思い知らされる。
シグヴェルトがティアを見下ろした。
「竜まで連れて帰ってきたな」
「置いてくるわけにはいかないでしょう。でも、どうしましょうか」
「飼えばいい」
いとも簡単に言ってくれる。
「……どうしましょう。この子、何を食べるんでしょうか」
「さあな。色々試してみればいい。魔力だけでも充分かもしれんがな」
小さな竜――ティアはレオノーラの手の間から出てくると、シグヴェルトの持つ鞄に鼻先を寄せ、すんすんと匂いを嗅いだ。
――そこには、レオノーラの作った軽食の残りが入っている。
「――シグヴェルト様、そちらをティアに食べさせてみてもいいでしょうか」
「駄目だ。これは私のものだ」
「大人げないことを言わないでください」
ティアが同意するようにレオノーラの袖へ爪を立てて頷いた。
「きゅっ」
「……二人がかりとは卑怯だぞ」
シグヴェルトは仕方ないとばかりにレオノーラに鞄を返した。とても、惜しそうに。
◆◆◆
執務室でティアにパイや焼き菓子を食べさせた後、レオノーラは離宮の部屋へ戻された。
すぐに魔術院で報告書へ取りかかるつもりだったのだが、シグヴェルトに休むよう命じられたのだ。
軽い食事を取り、湯を使ったあと、寝台へ横になる。
ティアは枕の横へ丸くなり、まるで以前からそこを寝床にしていたかのように目を閉じていた。
(……可愛い)
その姿を眺めているうちに、レオノーラも泥のような眠りへ落ちた。
次に目を覚ましたとき、窓の外は夕暮れに染まっていた。
身体の重さは残っているものの、頭は随分とすっきりしている。レオノーラは机へ向かい、ティレアン火山で起こったことを順に書き始めた。
到着時の火山活動。地脈の異常。噴火直前まで増大した熱と魔力。溢れそうな分を一つの形へまとめ、空の果てへ放出したこと。
最後に、火山竜が消滅したあと、精霊に近い小型の存在が残ったことを書き加える。
その当人は、机の上で羽根ペンの動きを追いかけていた。
「ティア、邪魔をしてはいけません」
「きゅう」
返事だけはいい。だが落ち着く気配はない。
レオノーラが次の紙へ手を伸ばした途端、ティアがインク壺のそばを横切ろうとして――インク壺に足を突っ込んだ。
「ティア!」
ティアはそのまま報告書の上を歩き、紙の余白に小さな足跡が三つ並んだ。
「…………」
ティアは自分の残した跡を不思議そうに見下ろしている。
――書き直しである。
レオノーラが新しい紙を取り出そうとしたとき、扉が開いた。
入ってきたシグヴェルトは、机の上の報告書と、小さな足跡を一目見た。
そして、笑った。
「元気がいいな」
「元気すぎるほどです。こちらはすぐに書き直します」
「いや、そのままでいい。発生した個体の痕跡として添付しよう。貴重な資料だ」
シグヴェルトはティアの尾を指先で軽くつまみ、足裏を確認する。
ティアはぶら下がるほど持ち上げられる前に尾を振り、小さく抗議した。
「きゅっ」
そのままぷいっと顔を逸らし、レオノーラの髪の中に隠れた。
「……どうして私には懐かない」
「扱いが粗雑なのでは?」
「解せぬ」
「シグヴェルト様も、襟首をつまんで持ち上げられたら気持ちがわかるかもしれません」
レオノーラの髪の間から、ティアが同意するように顔を出した。
「きゅう」
「また二人がかりか」
シグヴェルトは不満そうに呟き、机の上へ視線を移した。
書きかけの報告書。その横には、使い慣れた羽根ペンが置かれている。
「渡したペンはどうした」
「……あれは、もったいなくて」
「火山では使っただろう」
――それは、魔術の杖代わりとしてだ。
「あれは使わないと、内部でインクが詰まる。適度に使ってやってくれ。杖以外としても」
「……承知しました」
次の報告書から使おう。そう決めたレオノーラを見て、シグヴェルトは満足そうに頷いた。
それから机の端へ、一通の封書を置く。白い封筒には、王家の紋章が刻まれていた。
――すっと、胸の奥が冷える。
「お前宛てに手紙だ。読まずに捨ててもいい」
そう告げると、足跡のついた報告書を手に取り、部屋を出ていった。
残されたレオノーラは、封書を見つめた。
ティアが封筒へ近づき、角の匂いを嗅ぐ。
レオノーラは小竜をそっと遠ざけ、封を切った。取り出した便箋には、見慣れた筆跡が並んでいる。
『親愛なるレオノーラへ。
僕たちの間には、少し誤解があったようだ』




