まあだだよ ~夏目漱石先生と観る、弟子・内田百閒の物語1~
土曜日の朝、視聴覚室準備室のドアを開ける。
「おはようございます。」
「てらくん、おはよー。」
美幸さんが答えてくれる。
視聴覚準備室の窓の外の桜は花を散らし、新緑の準備をしている。
今日は本当に暖かい。
富田先輩は、窓辺で顔を紅潮させ、胸の前で手を上下に振って話をしている。
話し相手は顧問の大関先生だ。こちらも満面の笑みである。
聞こえてくる言葉は……。うん。宇宙語だ。何を言っているのか、全く理解できない。
「ほい、コーヒー。」
美幸さんがコーヒーを渡してくれた。今日もフーフーしたのかな。富田先輩を凝視していて見ていなかったよ。
「ありがとう。富田先輩はなぜあんなに興奮しているの。」
「…くろ、くろ、黒川監督だっけ?リスペクトしてるんだって。」
よくわからないな。黒川監督というのは、まあだだよの監督なんだろう。
「いや、黒沢監督だよ!ゆきゆき!なぜ黒澤明監督を知らないのだ!世界のクロサワだぞ!基本だぞ!」
窓辺で宇宙語を話していた富田先輩から注意が入る。そんな大きな声ではなかったのだが。
…地獄耳だな…。
「映画オタクではありませんので。」
ドヤ顔で美幸さんが答える。ドヤる要素はなんだろう。
「寺塚、おはよう。今日もよろしくな。」
大関先生が挨拶をしてくれた。うん、普通の大関先生だ。先ほどまでとは別人だね。
富田先輩が私の存在に気が付いた。
「てらくん、おはよう!すまない、あいさつが遅れてしまった!」
富田先輩、元気ですね。普段とは別人ですよ。
「準備はできている。視聴覚室に移動してくれ。」
薄暗い視聴覚室へと移動し、私と美幸さんはスクリーンの前側中央に、宇宙人二人は後方に陣取ったようだ。
「よーし、再生するぞー。今日の映画は東京物語と違い明るい映画だ。楽しんでくれたまえ。」
前の椅子の背もたれに、小さなイマジナリー夏目漱石先生が現れた。
いつぞやの時と同じように、三つ揃えをビシッと決め、ステッキを持っている。磨き上げられた黒い革靴が、銀幕の青白い光を鈍く反射する。
『私の門下である内田という男はね、あれは実に一筋縄ではいかん男だよ。
頭は滅法いいのだが、妙なところで頑固で、借金の天才だ。
いつでも何かに怯えていてね、お化けや雷を本気で怖がる。
子供がそのまま大人になると、彼のようになるのかもしれない。』
『だがね、彼の書く文章を読んだことがあるだろう?あれほど美しい日本語を書く男はそういない。
しかも、あれだけ自分の好き嫌いに純粋に生きられるのは、ある種の才能だ。
少し風変わりな男なのだが、根は人一倍、情の厚い男だ。
どうか温かい目で、映画をみてやっておくれ。』
そういうと、夏目漱石先生は背もたれの上に座り銀幕をみる。
映画が始まる。百閒先生が教壇で授業を始める。
『これで最後の授業になります。』
ノラが失踪した。百閒先生はひどくうろたえ、涙を流し、ノラを探し回る。
『ああ、内田の猫の話だね。あれはもう、ただの飼い主とペットという生易しいものではないよ。
私の書いた『吾輩は猫である』の猫は、人間の滑稽さを冷ややかに眺めていたがね。
内田のところのノラときたら、主人の心を完全に狂わせてしまった。』
夏目漱石先生は銀幕をみながら独り言ちる。
『猫一匹にそこまで心をかき乱される男を世間は変人と言うかもしれない。
だがね、私はあの男のそういう純粋で、不器用なほどに情が深いところが愛おしいのだ。』
『彼の『ノラや』、という文章を読んだことはないかい?
猫への愛と失った悲しみが、実に見事な文で綴られている。
君も読めば、きっと胸を打たれるはずだよ。』
後ろの方で興奮した宇宙人どもの宇宙語が聞こえてくる。
……無視だな。
『まあだかい!まあだだよ!』
合戦が始まる。
ノラが失踪し、気落ちしてしまった先生を励ます。同時に誕生日を祝う。
そんな特別な『摩阿陀会』の幕が上がった。
戦後しばらくたったのであろう。
生徒たちの装いは人民服、これだと中国になってしまうな。国民服というのかな?
カーキ色の服からスーツに変わっている。テーブルの上のお酒も、カストリ酒?からビールに変わっている。
日本が復興してきているのがわかる描写だ。
『摩阿陀会はね、木曜会とは少し違って、内田を慕う生徒たちが自主的にあやつのために誕生日の祝宴をひらいているそうなのだ。内田の情の厚さがなせる業なのかもしれないね。』
夏目漱石先生は、笑顔で静かにそう言った。
終盤。日本は高度経済成長期に突入している。銀座なのかな?ネオンの色が鮮やかだ。
生徒たちもすっかり老け込み、子や孫がいる。大所帯だ。
子供たちから花束を受け取り破顔する先生がじつにすばらしい。
そして夕焼け空の下に響く子供たちの声。
『まあだかい。まあだだよ』
そして映画は終わる。
『最後、あの男は子供に戻って夢を見ていたね。
夕焼け空の下でかくれんぼをし、純粋な心のままで生涯を終えようとしている。
私のところへ通ってきた頃は、ただの風変わりな教え子の一人だったが。』
『これほどまでに多くの教え子や、その子供、孫たちに慕われ、看取られる。
それはひとえに、内田の情の厚さ、懐の深さがあったからだ。
世間をはみ出し、頑固に生きた彼だからこそ、温かい人の輪を作ることができたのだろう。』
夏目漱石先生は深く息を吐き、嬉しそうにつぶやく。
後ろにいる宇宙人二人が宇宙語を言いながら視聴覚室のカーテンを開く。
映画の余韻が拡散し、薄れてゆく。
『さて、次は批評だね。内田が見たら、また妙な言い訳を思いつきそうだね。
その批評には、少しばかり私も所感を述べさせてもらおうか』
「レビューを書くときも助けてくれるんですね。ありがとうございます。」
『いやいや、考えるのは君自身だよ。僕はほんの手助けしかしないよ。』
「それでもありがたいです。」
『そうかい。うん、人に頼ってもらえることは、うれしいことだね。』
笑顔の夏目漱石先生が、春の日差しの中に消えてゆく。
つづく
作中に登場する文豪の先生方、映画監督は、最大のリスペクトを込めて、本作オリジナルのフィクションキャラクターとして登場させていただいております。実在の人物の思想や名誉を毀損する意図は一切ございません。一読者としての愛を込めたパロディとして、温かい目でお楽しみいただけますと幸いです。




