7. 浸食(7)
ユキが中広間に入ると深みのある声がユキに挨拶をした。
「モリさん!?」
いつもアルスに付いているモリが今日は中広間に来ていた。
「もしかして、ここで立番するの?」
「ええ。今日はお休みをいただいているので」
モリは優しく微笑む。
「それなら、お休みしていたらいいのに」
ユキは笑いかけるが、そのモリの気持ちが嬉しくてたまらない。モリも最近のユキの様子を聞いて心配してくれているのだ。
ユキは改めて体に力が入るのを感じた。今日一日を熱心に〈女神の書〉作成に費やす。
そして少しでも早く終わらせるのだ。
それでも何度かユキが上の空になることはあった。
しかし、すかさずサラナが声をかける。サラナに気付くと、ユキは微笑みかけ、また机に向った。
近くにいるイリヤはそんな二人を少し不思議そうに眺めていた。
それが午後の休憩の時だった。
温かいハーブのお茶のカップを、ユキが手を滑らせてテーブルの上にぶちまけてしまったのだ。
「ユキ様! 火傷はされませんでしたか?」
慌てててサラナが駆け寄る。
「大丈夫。それよりごめんなさい。こんなにこぼしてしまうなんて」
「気になさらないで下さい。お召し物も大丈夫ですか?」
ユキが少しも濡れていない事を確認すると、サラナは布巾や雑巾を取りに廊下へと出て行った。
サラナが厨房から戻ると、ユキのいる中広間がなにやら騒がしい。サラナが急いで扉を開いた。
「止めて! 近づかないで!」
ユキが窓辺で怯えている。
近づこうとしていたイリヤの足が止まる。
「ユキ様。いかがなさいましたか?」
モリの顔から血の気が引いている。
そのモリの顔をユキが恐る恐る見つめる。窓枠に掴まる手がガクガクと震える。
サラナが慌てて両手に持った、布巾を投げ捨て、ユキの近くへ駆け寄った。
「ユキ様、いけませんわ! サラナです! よく見て下さい」
ユキがぼんやりとサラナの顔を見る。
「……サ・ラ・ナ………? サラナ!」
我に返ったユキが周囲の状況を把握する。
「…………ごめんなさい。何でもないのよ。ちょっと疲れていただけだから」
笑って誤魔化そうとするが、モリの顔色は悪い。
「ユキ様、今のは何ですか? とても尋常ではないご様子でした」
「大丈夫よ。ホントに何でも無いから……」
「いいえ! そのようには思えません!」
いつも穏やかなモリが、ユキにかぶせるように大きな声を上げる。
モリはキッとサラナに目を向けた。
サラナは震えていた。
朝だけだと思っていたユキが日中もこんな状態に陥り、恐ろしくてたまらないのだ。
「サラナ。あなたは何か知っていますね?」
サラナの目から涙がこぼれる。
「サラナ!」
サラナは顔を上げると、ユキを見た。
「申し訳ございません。ユキ様。もう無理です」
◇ ◇ ◇ ◇
「どうしてそんな大切な事を黙っていたんだ!!」
アルスがユキを怒鳴りつけた。
モリからの知らせで、大宮殿から急いで戻ってきたのだ。
「あと少しで終わらせるわ。こうしている時間ももったいないのよ」
「いいや、もう終わりだ。〈女神の書〉は完成だ」
そう言うとモリに指示をし、原書を回収させた。
ユキがそれを苦々しく見つめる。
「だからアルスには言いたくなかったのよ。まだ終わらせないわよ! 原書を回収しようが、〈女神の書〉をベルサドに送ろうが何も変わらないのよ。私が終わりにしなければ、ずっとこの状態のままよ」
アルスが怒りに満ちた顔でユキを見る。
「それなら終わらせろよ」
「できないわ!」
ユキが決然と言い放つ。
アルスがユキの手首を掴んだ。
「俺は〈女神の書〉なんてどうでもいいんだ。お前が無事でいられないなら、そんな物焼き捨ててやる」
「止めて! ……そんな事したら絶対アルスのこと許さない! 〈女神の書〉は私がここにいる理由の全てよ! わかってるでしょ? この為にこの世界に来たんだから!」
ユキが吐き出すように言葉をぶつけた。
「どうしても俺の頼みが聞けないのか?」
「聞けない!」
ユキの手首を掴むアルスの手が震える。
「……ごめんなさい」
ユキが目を逸らし小さく呟いた。
アルスはユキから手を離すと無言で部屋から出て行った。
アルスの心は高熱に冒され今にも焼き切れそうだった。
ユキにとっての「最優先事項」は「女神の書」で、ユキにとっての「世界」は「女神の書」なのだ。
――――自分では無く。
庭を突っ切ると、宮殿を囲むオアシスへと向かった。そのままの勢いで、水の中へと飛び込んだ。
半時が過ぎ、がむしゃらに泳いでいたアルスの手も足も疲労で痺れてくると、ようやく水が体の熱を奪い、頭の芯から冷ましてくれるようだった。
ずぶ濡れの衣服のまま岸に上がると地べたに座り込んだ。
「はあ、はあ」と息を切らせながら足もとの泥を掴むとやみくもに湖面に投げつけた。
「まだお怒りですか?」
背後からググンの声がする。
「……ユキは理想の女神だな。嬉しいだろ?」
刺々しくアルスが言い放った。
「はい。本当に理想的で素晴らしい女神様でいらっしゃいます」
アルスは背後に立つググンを振り返り睨みつけた。
「……ユキ様のお加減が悪い日が続いていましたね。でも皇子はきちんと公務に出てらっしゃった。それはユキ様を最優先されなかったという事ですか?」
「な……俺がどれだけ心配していたと……」
「でも側にはいて差し上げなかった」
カッとアルスの頭に血が昇る。
「皇子の使命はサマルディアの民の為にある事です。女神の使命はこの世界の民の為にある事です。お二人ともその使命をお捨てになりますか? 唯の男と女として生きてゆかれますか? 皇子はそれを望んでいらっしゃるのですか?
まあ……ユキ様はそれを望んではおられないご様子でしたが……」
ググンが満面の笑顔を寄越した。
アルスが手に残っていた汚泥をググンに投げつける。泥はググンの胸元に当たり派手に顔中に跳ね上がった。
「忠臣に向ってなんとひどい事を」
アルスが鼻で笑った。
「へばっている主に先に泥玉を投げつけたのはお前だろ!」
立ち上がったアルスはずぶ濡れの上に泥まみれで、上位文官の装束を着たググンの主の様には到底見えなかった。
「ひどいお姿ですね」
「お前もな」
アルスが大きなくしゃみをした。思わず手で鼻を擦ると顔まで泥まみれになった。
それを見たググンが笑い出す。アルスも自分の顔が泥まみれになった事に気づき笑いだした。
「お風邪を召される前に、さあ戻りましょう」
「そうだな」
アルスは笑いながら手を振り回し泥をこそぎ落とそうとした。
「……だからお止め下さい」
アルスの手から放たれた泥の一塊がまたググンの顔に弾け飛んだ。




