6. 愛と嘘と(5)
「お帰りなさい」
昼には見送りを終えたアルスが暁の宮殿に帰ってきた。大きな仕事が終わり、アルスも機嫌がいい。
「ただいま」
同盟の条項の変更にはパリールとの婚姻まで入っていたという。あんな提案が通らずに心から良かったと思った。
「……どうした?」
考え事をしていたユキの顔をアルスが覗き込んだ。ユキが慌てて「何でも無いよ」とかぶりを振る。
「朝は何をしていたんだ?」
「何にもしてなかった」
あれほどアカンティから持ち帰った〈エリの日記〉の翻訳にこだわっていたユキから意外な答えがあって、アルスは目を丸くした。
もちろん早く翻訳には取り掛かりたいのだが、今日まではなかなか手に付かなかったのだ。
ユキがアルスの袖を引く。
「ホントに帰ったよね?」
ユキは実際アルスの口から聞かないと、安心できなかった。
まさかパリール王女だけ残ってる……なんて事ないわよね?
「帰ったよ」アルスが笑顔で答える。
わかりやすくユキがホッとした顔を見せると、アルスがユキを抱き寄せた。
「またお前を困らせるだけか?」
何の事だろう?
ユキはアルスの言葉の意味がよくわからない。
アルスがまっすぐにユキの瞳を見つめた。
「ユキ。俺と結婚して欲しい」
ユキの頬がほんのりと赤くなる。ユキもまっすぐにアルスの瞳を見つめた。
「……はい」
するとアルスが突然ユキを腰から抱え上げた。
「キャッ」
ユキが驚いて声を出すと、アルスが満面の笑みを浮かべている。
「やっとユキが俺のものになったな」
「下してよ。お……重いし」
ユキがおろおろすると、そのままアルスはユキを抱きしめ、ユキの首筋に顔を埋めた。
「愛してる」
「アルス……」
「皇子!? 皇子どちらですか!?」
突如ググンの大声が響き渡る。
「ああ皇子。こんな所にいらっしゃったんですね。同盟の条項にある軍備についてなんですが明日会議を開きますので、こちらの概要をまとめたものをですね…………あれ? もしかしてお邪魔でしたか?」
アルスがユキを抱きしめているのにやっと気づいたググンが、すっとんきょうな声を出した。
「ああ!! 邪魔だよ!!」
アルスがググンに怒りをぶつける。
「とにかく仕事に戻りなよ」ユキがお腹を抱えて笑う。
「嫌だ」アルスがごねる。
「いいじゃん。ほらググンも待ってるから」
そう言ってアルスの背中を押して送り出した。去って行くアルスがググンを小突いているのが見えた。
――――「結婚」かあ
ユキは胸がトクントクンと高鳴るのを感じた。
二人の婚約をまず、アルスの父親であるサロール皇帝陛下に報告した。
サロールは大いに喜んでくれた。
これを聞き、宮殿内はお祭り騒ぎだ。
エレノワや、ヒリク老人などお世話になった人たちに報告すると、一日では足りなかった。
暁の宮殿に戻ると、ググンやヘレム、サラナ、モリにバトー、皆が心から祝福してくれた。
ユキは幸せな気持ちでいっぱいだった。
だが今はその幸福に酔いしれている時間が無い事は分かっていた。
ベルサドからの使者が来るのだ。
同盟の条件にあったベルサド語での〈女神の書〉作成。ユキに待ち受ける大きな仕事だ。
そして彼らが来るまであと1週間ほど。
〈エリの日記〉を翻訳するのにギリギリ間に合うかどうかの期間だった。
なぜ〈女神の書〉が未完なのか――――?
ユキがどうしても知りたいことだった。日記に書かれているという確約は無い。それでもユキにはエリが日記に何か書いているという確信があったのだ。
アルスと婚約した今、ユキはこの国で生きて行く覚悟を決めた。
この国を離れない。アルスの隣で生きて行くのだ。
だから突然自分は消える訳にはいかない。
「日本へ帰る」「日本へ帰らない」という選択の岐路を見逃すわけには行かないのだ。
「今夜部屋に行ってもいいか?」
挨拶周りを済ませた後、暁の宮殿に戻るとアルスがユキを後ろから抱きしめた。
ユキは残された日数を、日記翻訳につぎ込むと決心したばかりだ。少しの猶予も無い。
「……ごめんね、アルス。それはちょっと無理かも……」
アルスがユキの肩を持ち、自分の正面に向かせた。
「どうしてだよ?」
「だって日記の翻訳をしなくちゃ。バタバタとしていて何にも進んでいないんだもん」
「落ち着いてからやればいいだろ? もう解決はしてる。〈女神の書〉は未完であれば大丈夫だ」
「私もそれはきっと大丈夫だと思ってる。でも万が一違っていたらどうする? 私にはわかるのよ。日記には必ずエリが感じ取った何かが記されているわ。ベルサドの使者が来て〈女神の書〉作成を始めてからでは間に合わないかもしれないのよ。ね、わかって」
「……ユキは婚約したって、結局何も変わらないな」
アルスががっくりと肩を落とし、大きなため息をつく。
ユキがアルスの胸元に顔を埋めると、そっと目だけを上に向けアルスに訴えた。
「ねえ、お願い。アルス」
アルスが複雑な表情を浮かべる。
「……あーもう! お前卑怯だぞ。そんな事されたら嫌だけど聞いてやりたくなるだろ!」
「じゃあ、いいのね?」
「…………無理しすぎるなよ」
そう言うと、コツンとユキの額に自分の頭をぶつけた。
「ありがとう、アルス」ユキは満面の笑みを浮かべた。




