6. 愛と嘘と(6)
本格的にユキは〈エリの日記〉の翻訳に取り掛かった。
父親や故郷への思いが綴られていた文面に、セラートの名前が出てくるようになった。
アカンティ王朝よりも以前のコーシンティ王朝に仕える軍総司令だった人だ。
日記にはエリの思いが溢れていた。二人が愛し合っているのが良くわかる。
日記を翻訳しながら、ユキは遠い昔の二人では無く、アルスを思い浮かべた。エリのセラートに対する愛が自分の中のアルスへの思いと同化していく。
エリの日記はいよいよ残すところ5枚となった。ベルサド王国の使者到着までには何とか間に合いそうだ。
〈エリの日記〉が終わってしまう事が少し寂しい。
ただ気になる事は結局、
なぜ『女神の書』を未完にしたのか――――?
それについての記述が全く出て来ていない事だった。
ユキの勘はやはり当たらないようだ。残された日記に今更その事が書かれているとも思えない。
ユキは大きく伸びをすると、また机に向った。
日記には久々にエリの父親の事が書かれていた。珍しく夢に出て来たらしい。
そういえばユキもあれほど日本を恋しがり、家族を思っていたのに、夢で見る事はなかった。
夢でだけでも逢えたらいいのにね……
ユキはそう思いながら、翻訳を続けた
“Ellie.Ellie”
エリの父親が夢の中で呼んでいるらしい。エリは切ない気持ちになったようだ。
ふとその英語の綴りを見て、ユキは気づいた。
『エリ』は本当は『エリー』が正しい。
伝わっている名前は発音がほんの少しだが違うようだ。
ググンに言えば喜んで食いつきそうなニュースだとユキは思った。
少し横にそれて軽くなっていた気持ちに陰りが差す。
セラートへの愛に溢れていた日記には、エリの見た夢の記述が増えていったのだ。
毎日のように父親の夢を見ているようだった。
そして、読み進めて行くうちに、夢は父親だけでなく、友人や教師、自宅や学校、近隣の人たちや街中の細かい描写にまで広がって行く。
〈エリの日記〉で細かい情景が書かれているのは初めてだった。しかもそれは夢の中の話だ。
ユキは違和感を覚えた。
そして日記の中でエリが次第にそれらを恐れるようになっていった。
ここでようやく〈女神の書〉が登場する。
ユキの目がそれにくぎ付けになる。
書を進める程に、夢がエリを浸食していくようだった。セラートへの愛と夢への恐れが入り混じる文章だ。
エリは怖がっていた。セラートと離れ、自分が故郷へと攫われてしまう事を……。
エリはまだ終わらない〈女神の書〉を書くことを止めてしまった。
それはつらい決断だったが、それでもこれ以上書くことはできなかったのだ。
強制的に〈女神の書〉には(アカンティ語で「完」を意味する言葉)を書いたと記されていた。
英語で書かれた文章に初めて登場したこの世界の言葉だった。
日記にはパタリと夢を見なくなり、完全に父親と故郷を断絶してしまった悲しみと罪悪感が綴られていた。
そして日記はセラートへ愛を捧げる文章で締められていた。
翻訳を終えたユキは体から力が抜けるのを感じていた。
翻訳を終えたという達成感と、もう「エリの日記」が終わってしまった脱力感。
そして「女神の書」を未完にした理由――――
私も夢を見るのだろうか?
それがユキを少し不安にさせた。
窓からは朝日が昇り始め、机の上に広げた書物や散らばった紙を紫色に照らしはじめていた。
――――今日ベルサドからの使者が到着する予定だ。
太陽が真上に来た頃サラナがユキを起こしに部屋に入って来た。
「ユキ様……。あら? もう起きていらしたのですか?」
鏡台に向ってぼんやりと座っていたユキに驚いて声を掛けた。
「……まさか一睡もされていないのですか?」
「うん」
ベッドには入ったのだが、どうしても眠れなかったのだ。
サマルディア語で書いている「女神の書」はまだ3分の1ほどだった。
怖い夢など見るはずもない。
いや、怖い夢であるはずが無いのだ。
大好きな家族の夢だ。お父さんにお母さん、お姉ちゃん。怖いことなど何もない。
自分は少しエリに引きずられていると思った。自分と同じ境遇の女性。どうしてもシンクロしてしまうのだ。
それに翻訳だって辞書を使ってやったわけでもない。微妙なニュアンスだって違うのかもしれない。
そう思う事にした。
家族の夢を怖がりたくはなかった。
こんな顔でベルサドからの使者を迎えなければならない。
ユキは徹夜のおかげで酷い顔だった。ヘレムがユキの目の下の隈をおしろいで隠し、頬紅もいつもよりも濃く入れてくれた。
馬車でもアルスが心配してくれた。
「一睡もしていないのか? 少し眠ったらどうだ?」
「大丈夫。帰ってきたら少し仮眠をとるから」
アルスが一瞬言葉を詰まらせたように頷いた。
「……それで、日記は終わったのか?」
気になっていたのだろう、アルスが尋ねた。
「うん。全部終わったよ。結局未完にした理由は書いて無かったわ」
ユキはアルスはもちろん、みんなにエリの見ていた夢の事は話そうと思っていたのに、とっさに嘘を付いてしまった。
どうして自分の口からこんな嘘が飛び出したのかと動揺したが、疲れ顔のユキの表面までには出なかった。
「そうか。……残念だったな」
アルスは手を伸ばしユキの頭を自分の肩にもたれかけさせた。まるで慰めるかのようなアルスの優しさが伝わってくる。
ユキはなされるがままにアルスに身をゆだねた。
揺れる馬車の窓から曇り一つない真っ青な空が見えた。ユキは微睡むように瞳を閉じた。
ごめんね……アルス……
眠気と疲労で何も考えられない頭の中で、それでもこの自分の選択が正しいという確信が生まれていた。
――――どうかこの嘘が気づかれませんように




