私だけが呼ばれる名前
夏休み前の、七月の終わり。
教室の窓から吹き込む風は、少しだけぬるかった。
「暑い……。」
結衣は机に突っ伏しながら、小さく呟く。
「まだ午前中なのにね。」
隣の席の友達が苦笑する。
「もう夏だなぁ……。」
ぼんやりと窓の外を見る。
青い空。
入道雲。
そして、その向こうには隣のクラスがある。
……今頃、澪は何してるんだろう。
そんなことを考えていると、
「朝倉ー。」
「……ん?」
「また考えてる。」
「何を?」
「桜庭さんのこと。」
「……え。」
思わず顔を上げる。
「そんな分かりやすい?」
「うん。」
友達は即答した。
「最近、桜庭さんのことになると顔変わるし。」
「変わってないよ。」
「変わってるって。」
くすくすと笑われる。
「仲いいよね、二人。」
「……うん。」
「羨ましいくらい。」
その言葉に、結衣は少しだけ笑った。
確かに、最近はいつも一緒にいる。
朝も。
昼も。
放課後も。
家に帰ってからもDMをする。
気づけば、一日のどこかに必ず澪がいた。
それが当たり前になっている。
昼休み。
いつものように中庭へ向かう。
そこには、もう澪が待っていた。
「結衣。」
その呼び方に、自然と顔が上がる。
最初は「結衣さん」だった。
でも、少し前から呼び捨てになった。
それが妙に嬉しかった。
「お待たせ。」
「全然です。」
隣に座る。
「今日、すごく暑いね。」
「ですね。」
「夏休み、もうすぐだなぁ。」
「……あ。」
澪が少しだけ表情を変えた。
「どうしたの?」
「いや……。」
少し迷うように視線を下げる。
「夏休みになったら、学校で会えなくなるんだなって。」
「……。」
その言葉に、結衣の胸が少しだけきゅっとした。
確かにそうだ。
DMはできる。
遊ぶことだってできる。
それでも。
毎日、当たり前のように会えるわけじゃなくなる。
そう思うと、少し寂しい。
「……だね。」
「なんか、変な感じです。」
「うん。」
二人の間に、少しだけ静かな時間が流れる。
すると。
「……でも。」
澪が顔を上げた。
「夏休みも、いっぱい話したいです。」
その一言に、思わず笑ってしまう。
「何それ。」
「だって、本当ですから。」
「ふふ。」
「笑いましたね。」
「ううん。」
結衣は小さく首を振る。
「私も同じこと考えてた。」
「……!」
その瞬間。
澪が嬉しそうに笑った。
……その顔を見ると、なんだか安心する。
放課後。
帰り道。
夕焼けの中を二人で歩く。
「そういえば。」
澪がふと口を開いた。
「最初、結衣ってどんな人だと思ってたんですか?」
「え?」
「ネットで話してた頃です。」
結衣は少し考える。
「……優しい人。」
「それだけ?」
「あと、すごく話しやすい人。」
「ふふ。」
澪が少し照れたように笑う。
「私は……。」
「うん?」
「年上のお姉さんみたいな人を想像してました。」
「え?」
「なんか、しっかりしてそうだったから。」
思わず吹き出してしまう。
「全然違う。」
「そうですか?」
「うん。」
「でも、今も少し思ってます。」
「だから何で。」
二人で笑う。
その時間が、とても心地よかった。
しばらくして。
「……ねぇ、澪。」
「はい?」
「私たち、結構変だよね。」
「変?」
「だって、ネットで知り合って、たまたま同じ町に住んでて、同じ学校で、隣のクラスで……。」
「……確かに。」
「すごい偶然。」
「奇跡みたいですね。」
その言葉に、結衣は少しだけ足を止めた。
……奇跡。
そうかもしれない。
あの日、たまたま同じ推しの投稿を見つけなかったら。
DMを送っていなかったら。
今、こうして隣を歩いてはいなかった。
そう思うと、不思議だった。
「……結衣?」
「ううん。」
小さく笑う。
「なんでもない。」
その日の夜。
ベッドに寝転がりながら、いつものようにDMをしていた。
『今日はありがとうございました!』
『こちらこそ。』
『なんか最近、毎日楽しいです。』
そのメッセージを見て、指が止まる。
毎日楽しい。
……私も。
そう思った。
『私もだよ。』
送信。
数秒後。
『やった。』
たったそれだけの返事なのに。
なぜだか胸が温かくなった。
しばらくして、また通知が鳴る。
『……結衣。』
「……え?」
思わず声が漏れる。
DMには、そう書かれていた。
『どうしたの?』
『呼んでみただけです。』
『何それ。』
『なんとなく。』
思わず笑ってしまう。
でも。
「結衣」
その二文字を見ていると、胸が少しだけくすぐったい。
学校では、みんな「朝倉」と呼ぶ。
家では、「結衣」。
でも。
こうして、名前だけを呼んでくれるのは、澪だけだった。
『……澪。』
今度は自分から送ってみる。
すぐに返信が来る。
『はい?』
『呼んでみただけ。』
少し間があって、
『真似しましたね。』
と返ってきた。
『した。』
『ふふっ。』
そのやり取りだけなのに、なんだか嬉しかった。
スマホを胸の上に乗せる。
静かな部屋。
なのに、胸だけが少しうるさい。
……なんだろう、この気持ち。
その時。
ふと、今日の友達の言葉を思い出した。
『桜庭さんのことになると顔変わるし。』
そして、最近の自分を思い返す。
澪を見つけると嬉しい。
隣にいると落ち着く。
笑ってくれると、もっと見たくなる。
「また明日」が楽しみになる。
……もしかして。
そこまで考えて。
結衣は、ゆっくりと目を見開いた。
「……え。」
そして。
少しだけ顔が熱くなる。
まさか。
そんな。
でも。
胸の奥にあるこの気持ちは――。
否定できなかった。
スマホの画面には、最後のメッセージが残っている。
『おやすみ、結衣。』
それを見つめながら、結衣は小さく息を吐いた。
「……ずるい。」
私だけが、こんな気持ちになってる。
そう思ったのに。
『結衣』。
その名前を呼ばれただけで、嬉しくなってしまう自分がいた。
窓の外では、夏の虫の声が聞こえている。
そして結衣は、その夜初めて気づいた。
自分が、桜庭澪のことを好きになっていることに。




