少しずつ、隣へ
月曜日の朝。
結衣はいつもより少しだけ早く家を出た。
特に理由があるわけではない。
……いや、ある。
今日は学校で、初めて「みおりん」と会う日だからだ。
正確には、もう一度会う日。
土曜日に顔を合わせているのだから。
でも、アニメイトで会うのと学校で会うのとでは、なんだか違う気がした。
制服姿で。
いつもの教室で。
いつもの日常の中で。
そこに澪がいる。
それを考えるだけで、少し落ち着かない。
上履きに履き替えながら、ふと隣のクラスの方を見る。
まだ誰も来ていない。
「……何やってるんだろ。」
自分でも少しおかしくなって、小さく笑う。
教室へ向かい、自分の席に座る。
スマホを取り出してみる。
昨日の夜のDM。
『明日、学校で会うの変な感じですね。』
『ちょっと緊張するかも。』
『私もです。』
『でも、楽しみです!』
最後のその一文を見て、自然と口元が緩んだ。
その時。
廊下の向こうから、見慣れた黒髪が見えた。
桜庭澪。
彼女もこちらに気づいたらしく、足を止める。
数秒。
目が合う。
そして――。
「……おはよう。」
澪が少し照れたように笑った。
「……おはよう。」
結衣も小さく手を振る。
たったそれだけ。
なのに、胸が少しだけくすぐったい。
今までなら、ただの「隣のクラスの子」だった。
それが今では、毎日DMをしていた相手だと知っている。
なんだか不思議な感じだった。
「朝倉ー。」
後ろから友達に肩を叩かれる。
「今の誰?」
「え?」
「隣のクラスの桜庭さんでしょ?」
「う、うん。」
「知り合いだったんだ。」
「最近ちょっと……。」
「へぇー。」
友達はにやっと笑う。
「可愛い子だよね。」
「……そうかな。」
「そうかなって何。」
その言葉に、結衣は少しだけ考える。
……可愛い。
そう言われると、そうかもしれない。
土曜日に見た笑顔を思い出す。
「……うん、そうかも。」
「何その間。」
友達が不思議そうな顔をする。
結衣は慌てて首を振った。
「なんでもない!」
「ふーん……。」
何かを察したような顔をされて、さらに落ち着かなくなる。
一時間目。
先生の話を聞きながら、ふと窓の外を見る。
……今頃、澪も授業受けてるのかな。
同じ校舎の、すぐ隣。
今までは全然意識したことなんてなかったのに。
そう考えると、少しだけ不思議だった。
休み時間。
教室の前を通るたび、つい隣のクラスを見てしまう。
そのたびに自分で苦笑する。
「……気にしすぎ。」
小さく呟いた。
昼休み。
お弁当を食べ終わった頃だった。
教室の入口から、ひょこっと顔が覗く。
「……朝倉さん。」
「……!」
澪だった。
「どうしたの?」
「その……一緒にお昼、どうですか?」
「え?」
「嫌……ですか?」
「ううん!」
結衣は慌てて立ち上がる。
「行く。」
その一言に、澪がほっとしたように笑った。
二人は中庭へ向かった。
木陰のベンチに座る。
少しだけ気まずい沈黙。
そして。
「あはは……。」
「ふふ……。」
なぜか二人同時に笑ってしまった。
「なんか変な感じだね。」
「ですね。」
「昨日までDMしてたのに。」
「今は目の前にいますから。」
「……うん。」
不思議だ。
でも、嫌な感じはしない。
むしろ、少し嬉しい。
「そういえば。」
澪が口を開く。
「土曜日、楽しかったです。」
「私も。」
「また行きたいです。」
「アニメイト?」
「もちろん。」
その返事に、思わず笑う。
「今度はもっとゆっくり見よう。」
「はい!」
澪が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ると、こっちまで嬉しくなる。
「そういえば、結衣さん。」
「ん?」
「アニメイトで買ったアクスタ、もう飾りました?」
「飾ったよ。」
「早い!」
「澪は?」
「まだ箱のままです。」
「なんで?」
「もったいなくて……。」
「分かる。」
「ですよね!」
二人で笑う。
こんな何気ない話が、どうしてこんなに楽しいんだろう。
「……あ。」
澪が急に何かを思い出したように声を上げる。
「どうしたの?」
「私たち、まだ本名で呼んでないです。」
「……あ。」
そうだった。
DMではずっと、ゆいねことみおりん。
土曜日も、なんとなくそのままだった。
「……じゃあ。」
澪が少しだけ照れながら言う。
「結衣さん、って呼んでもいいですか?」
その瞬間。
なぜか少しだけ胸が跳ねた。
「う、うん。」
「じゃあ……結衣さん。」
自分の名前が、いつもより少し特別に聞こえた。
「……私も、澪って呼んでいい?」
「……!」
今度は澪の方が少し目を見開く。
それから、ゆっくり笑った。
「はい。」
「……澪。」
「……はい。」
二人で顔を見合わせる。
それだけなのに、なんだか照れくさかった。
それからというもの。
二人は学校でも話すようになった。
朝、廊下で会えば挨拶をする。
昼休みは一緒に過ごす。
放課後、昇降口で少しだけ話してから帰る。
そして家に帰れば、またDM。
「ずっと話してるね、私たち。」
ある日の夜、結衣がそう送ると、
『ですね。』
『でも、全然飽きないです。』
と返ってきた。
結衣も同じだった。
話したいことが次から次へと出てくる。
今日あったこと。
面白かったこと。
授業のこと。
全部、澪に話したくなる。
それが最近の日常になっていた。
「朝倉って、最近桜庭さんと仲良いよね。」
ある日、友達にそう言われた。
「そうかな。」
「そうだよ。」
友達は笑う。
「なんか楽しそう。」
……また、その言葉だ。
楽しそう。
自分ではよく分からない。
でも。
「……うん。」
今回は素直に頷いた。
「楽しいかも。」
そう答えると、友達は少し驚いた顔をした。
「へぇ。」
「なに?」
「いや、そんな顔するんだなって。」
「そんな顔?」
「すごく嬉しそう。」
「……え。」
思わず頬に手を当てる。
そんな顔をしていたんだ。
自分でも気づかなかった。
放課後。
今日は澪と途中まで一緒に帰る約束をしていた。
校門を出て、並んで歩く。
夕焼けが綺麗だった。
しばらく歩いて。
ふと、隣を見る。
夕日に照らされた横顔。
長いまつ毛。
柔らかそうな髪。
……綺麗だな。
そう思った瞬間。
「……結衣?」
「えっ!?」
慌てて前を向く。
「どうしたんですか?」
「な、なんでもない!」
「……?」
澪が不思議そうな顔をする。
結衣は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
……今、何を考えてたんだろう。
「じゃあ、私はこっちなので。」
分かれ道で、澪が足を止める。
「うん。」
「また明日。」
「……うん、また明日。」
澪が手を振る。
結衣も振り返す。
その背中が見えなくなるまで、なんとなくその場に立っていた。
そして。
胸の奥に、少しだけ不思議な感覚が残っていた。
友達。
うん、きっと友達だ。
すごく仲のいい友達。
……なのに。
どうして、こんなに顔を見てしまうんだろう。
どうして、笑ってくれるだけで嬉しいんだろう。
どうして、「また明日」がこんなに楽しみなんだろう。
答えは、まだ分からない。
でも――。
結衣の中で、何かが少しずつ変わり始めていた。




