2.マチルダ、憤慨する
薄い灰薔薇色に白い幾何学模様の入った壁紙。造りのしっかりした書き物机。白い、おそらく大理石で出来た暖炉。猫足のチェストに置かれた花瓶からは、鉄砲百合が控えめに香る。シンプルではあるが天蓋のついた広いベッドで、私は「この部屋の趣味好みだな……」と現実逃避をしていた。
食堂でゲームのシナリオを思い出した私は、真っ青を通り越して真っ白な顔になっていたらしい。焦った顔の両親に今日は休むよう言われ、こうして出てから大して時間の経っていないベッドに逆戻りしている。
朝の悲鳴に続いて、心の底から申し訳ない。次からはもう少しポーカーフェイスを心掛けよう、子供として不自然でない程度に。そう考えていると、部屋の扉が控えめな音量でノックされる。応答すると若い女性が入室してきて、彼女は眉尻を下げ困ったような笑顔を向けてきた。
「マチルダ様。お加減はいかがですか?」
「先生……ご心配をお掛けして申し訳ございません」
軽く頭を下げて答えると、家庭教師のミス・エルグレイはベッド脇までやって来て首を振る。
「誰だって、具合が悪くなることはあるでしょう。お医者様は何と?」
「特に悪いところは見受けられないから、少し休めばよくなるだろうとのことでした。……本当に、お騒がせをしてしまって」
そう答えて溜め息を吐きたい気分で目を遣った窓の外から、小さな子供のものと思しき笑い声が聴こえてきた。
「外は、……賑やか、ですね?」
「そうですね。アーサー様は、今日もお元気でいらっしゃいます」
「…………、アーティー?」
マチルダとしての記憶にある愛称を呟いて、私はふらりとベッドから出る。ルームシューズをつっかけて向かった窓を開けると僅かに木蓮の匂いの混じる風が吹き込んできた――二階にあるマチルダの部屋からは、庭がよく見える。見下ろせばちょうど部屋のすぐ下を、幼い少年が世話役らしき女性と何やら楽しげに話しながら歩いていた。よく動く大きな目は、私と同じ黒い瞳。
アーサー・バーレイストロー。マチルダの、五歳になる弟である。
「マチルダ様、春とはいえずっと風に当たっていては冷えてしまいますよ……マチルダ様? どうかされましたか?」
「……すみません先生、何でもございません」
気遣わしげなミス・エルグレイには、何とかそう答えた。顔を上げられない――きっと今、私は酷い顔をしている。
(ゲームで主人公と一緒に、ウエストベイルに戻った時。マチルダは、『皆いなくなってしまいました』って、言ってた……)
ならばおそらく、ウエストベイル辺境伯領が陥落した際。辺境伯とその妻である両親だけでなく、ゲームの時点で十三歳のアーサーもまた、命を落としたのだ。
マチルダは、どんな気持ちで弟の、家族の死の報せを聞いたのだろう。
(悲しかったでしょう、……悔しかったでしょう)
窓枠に置いた手に、知らず力が籠る。食いしばった歯がギシリと鳴った。
前世の記憶が残っていようと、他の何を覚えていようと。私にはマチルダとして八年間父と母に愛されてきた記憶が、弟の手を引いて歩き一緒に遊んだ記憶がある。彼らは確かに、私の家族だ。それに――
「……ねえ、先生」
「はい、どうされました?」
さすがに寝間着で長く窓の前に立ち過ぎたのだろう、強制的に窓を閉めベッドに戻るよう私に促すミス・エルグレイに声を掛ける。優しく応じる彼女を見上げて、私は歯を食いしばったせいでひん曲がりかけていた口を開いた。
「これは失礼に当たるのかもしれませんが。私、先生のことは姉のように思っています」
ミス・エルグレイは、目が合って一瞬たじろいだ様子だったが。それでも私の言葉に眼鏡の奥の薄青い目を瞬かせて数秒後、小さく咳払いをして私に向き直る。
「それは、とても嬉しいですが……その、本当にどうされたのですか? 体調が思わしくなくて不安なようでしたら、人を呼びますか?」
「大丈夫です、高熱にやられているわけでもありません。とても元気です」
喜びよりも心配の方が勝ったような顔の彼女に、むん、と胸を張って答える――元のマチルダは気弱で引っ込み思案で恥ずかしがりやであったから無理もないが、これはミス・エルグレイがこの屋敷に来て半年程、ずっとマチルダが思っていたことだ。何しろマチルダの座学、特に算術の出来は芳しくない中、ミス・エルグレイは辛抱強く教えてくれている。
「はあ、それならよろしいのですが。……その、雇われた身ではありますが。私もマチルダ様のことは、妹のように可愛いですよ」
ですからきちんと休んでくださいね、という言葉に従ってベッドに入ると、ミス・エルグレイは手持ちから選んできてくれたらしい本を置いて退出していった。タイトルを見るに、マチルダが好みそうな物語を見繕ってくれたようだ。
八年後の未来。彼女はまだ、このウエストベイルにいたのだろうか。
今朝私を毛布から救出してくれたメイドは、来月退職するそうだ。幼馴染と結婚して彼の実家のパン屋で働くのだと、頬を赤らめ笑顔で話していた。朝から私の診察に来てくれた医者は最近膝が痛いとぼやくついでに、半年前に産まれたばかりの孫の自慢をしていた。
魔族が侵攻してきて父が戦ったならば、辺境伯軍だって戦ったはずだ。この屋敷に母やアーサーがいたなら、護衛の私兵達は彼らを守るため命を懸けただろう。
皆、皆、幸せだったはずなのに、生きていたかったはずなのに。悲しかっただろう、悔しかっただろう。
『私』も、そうだった。
別に大きな夢があったわけではないし、単調な毎日ではあったけれど。誰のものとも知れないキャリーケースにいきなり全てを終わらされた前世を、「はいそうですか」とは思えない。まだ許せない、割り切れない。……だからこそ今世、八年後の未来を、ゲームでのたった一言、『辺境伯領では多くが犠牲になった』だなんてぞんざいな一文で片付けられてはたまらない。安い正義感と言われようが無益な義憤と言われようが、構わない。
私は今、怒っている。
私がこの世界に転生してきた意味なんて、無いのかもしれない。そもそも前世の私は、誇れる程の特技も知識も無かったのだ。今世で世界を大きく変える何かなんて、成せやしないかもしれない――けれど。
それでも抗いたいと、そう思った。




