1.マチルダ、思い出す
初めまして、こんにちは。
もしも楽しく読んでいただけましたら幸いです。
私は駅の階段で、目の前に降ってきた大きなキャリーケースの、海亀のステッカーを呆然と見上げていた。
勿論そんな時間はいつまでも続かない。衝撃と、それから浮遊感。そして私の体はそのまま後ろへ落ちていく。
落ちて、落ちて、落ちて――気づけば私は一人、真っ暗な空間を真っ逆さまに落ちていた。
(えっ、……何これ!? 駅は!? ここはどこ、私は誰!?)
『……私は、マチルダ・バーレイストロー』
不意に、幼い――小学生くらいの女の子の声が聴こえた。その声に「そうそう、そうだった」と頷きかけて、私は首を傾げた。
(マチルダ・バーレイストロー? ……それって、『レイシーと宝剣の旅』の?)
なるほど……これは夢か。きっと階段を落ちた私は、頭でも打ったのだ。そうでなければ、自分をゲームのキャラクターを思わないだろう。そもそも私は勤続五年目の営業事務のお姉さんであって、辺境伯家令嬢こと『脳筋うさぎ』ではない。第一あのキャラは今聴こえてくる声のような、幼いキャラではなかったはずだ。
納得して、今度こそ頷く。なるほど夢か。こんな変な夢を見るなら、もう起きてしまった方がいいかもしれない――どうやって起きればいいのかは分からないが。
とりあえず、手足をジタジタと動かしてみる。何だか柔らかいものに絡まって動きづらい。何事かと目を開く。いつの間にか落下は終わって、私はどうやらベッドに横たわっていた。手足の自由を奪っていたのはごちゃっと纏わりついた毛布で、どんな寝相だったのかと少し呆れてしまう。――そこでふと、自分の手に目が行った。色の白い手は小さく、まるで小学生くらいの子供のようだ。
急激に意識が覚醒し、飛び起きる。広めのベッドに膝立ちになりながらぐるりと見渡すと、壁際に置かれた大きな姿見に映る、まだ幼い少女と目が合った。少し乱れた髪は茶色、見開いた目は深い黒。
(誰……いやこれ子供だけどまさか、マチルダ・バーレイストロー!?)
毛布に包まったまま後ずさった私は、ぐらりとバランスを崩し――
「えっちょ……うわぁぁぁああああっ!!」
そのまま後ろへ倒れ、ベッドから落下した。
「あっはっはっはっは!」
「あなた、それくらいに……」
爆笑する三十代半ばくらいの体格のいい男性と、それを窘める三十手前くらいの綺麗な女性。シンプルな内装ながら、重い扉や立派なテーブルが歴史や家格を感じさせる食堂の中である。少し高い椅子に座り、私は彼らを交互に眺める。頭を動かす度に、二つに結った髪が揺れた。
私の上げた悲鳴は、屋敷中に響き渡ったそうだ。毛布に絡まりながら床に落ちていたところを駆けつけたメイドによって発見、救助された私は、彼女やその後駆けつけた面々には「寝惚けてベッドから落ちた」とだけ説明し騒がせたことを詫びた。これに関しては本当に、早朝の色々と忙しい時間申し訳なかったと思う。
身支度を整え朝食のため向かった食堂では、入室前から既に男性が爆笑していた。……まあ、分からないでもない。私を救助する時のメイドも、凄い顔をしていた。
「その……お父様、お母様。お騒がせして申し訳ございません」
しおらしい態度で私がそう言えば、男性――ダレン・バーレイストローは一旦爆笑を引っ込めた。
「いや、気にしなくていいんだぞマディ。ただその、お前があんなにでかい声を出せたのに驚いて……んぐ、ふ、」
再び笑いが込み上げてきたようで口元を覆い俯く彼に、とうとう女性――サーラ・バーレイストローは柳眉を吊り上げる。
「あなた……もう、ダズ! マディだって驚いたり痛ければ声ぐらい出ます! いい加減になさい」
「分かってるってサディ、けど、ホント思ってもみない声量で……あははははは!」
結局腹を抱えて笑い出した男性に呆れたらしい女性が私の方へと困ったような笑顔を向けてくるので、私も曖昧に笑いを返しておいた。
彼らは私の、――辺境伯家令嬢マチルダ・バーレイストローの両親である。
推測するに、キャリーケースに押し倒された『私』はそのまま、階段を落ちて死んでしまったのだろう……よくよく思い出せば、何となく頭と背中が痛かったような気がする。そして、そこまでの『私』と、それからマチルダとしての八年と一週間。今の私は、どちらの記憶もきちんと持っている。あまり信じたくはないが……どうやら私は、異世界転生というやつを体験しているらしい。なんてこったい。
そして転生先であるこの世界は、私が過去――『前世』と呼ぶべきか――暇さえあれば何度も遊んでいた、とあるゲームにとてもよく似ている。RPGゲーム、『レイシーと宝剣の旅』。内容は割とありきたりの、それ故にそこそこ人気のインディーズゲームだった。
マチルダ・バーレイストローは、そこに登場するプレイアブルキャラクターの一人だった。ゲームの時点では確か、十六歳。小柄でやや気弱、しかしそのステータスは意外にも戦士タイプで、少し座学が苦手であるという設定も含めて一部のファンからは『脳筋うさぎ』などというあんまりな渾名で呼ばれていた。
(……あれ? ちょっと待って、確かあのゲームの話は……)
朝食の運ばれ始めたテーブルを見るともなしに見つつ、私は少しずつ思い出してきた。『レイシーと宝剣の旅』では、魔族の軍勢による大規模な侵攻をきっかけに主人公達の冒険が始まるのだ。
魔族の侵攻を受けて陥落するのは王国の西――この、ウエストベイル辺境伯領。主人公と同じく王立学校に通っていて難を逃れたマチルダはその後、主人公達と共に変わり果てた故郷へ戻る。そして――
(そうだ……マチルダは、ウエストベイルでのシナリオ中に……)
もしも本当に、この世界がゲームの世界、或いはそれととてもよく似た世界だったとしたら。
十六引く八で、八年後。家族も、辺境伯領の領民達も、――そして、私も。
皆、死んでしまうかもしれない。
ざあ、と、血の気が引いていく音がした。
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