1.マチルダ、出掛ける
閲覧ありがとうございます。第二章、はじまりはじまり。
ルーチャ砦は、辺境伯の屋敷から見て南西の丘の上にある。本城に一番近いここはウエストベイル辺境伯領でも最重要の拠点であり、規模も大きい砦なのだそうだ。古い石造りのスクエア・タワーが聳えているのは、私の部屋の窓からも見ることが出来た。
「この砦も黒いんですね」
「辺境伯領内に建国時代からあるような城や砦は、大概そうですね。領の南方に、当時の採石場跡が残っていますよ」
「あ、歴史の授業で習った……ような? 何でしたっけ、あの……マル……?」
「『マルディンズ・ハーミテイジ』ですね。建国時代当時の血腥い昔話以外にも、幾つか怪談があるそうで――」
「その話はしなくて結構です」
「あっはっはっはっは!」
語気を強めに言うと、楽しげな笑い声が上がる。何だこいつ。怒りを表明ついでに馬車の窓を閉めてやろうかとも思ったが、ただ自分が退屈になるだけなのでやめておいた。
私――マチルダ・バーレイストローに前世の記憶が戻って、一年と四ヶ月程が経った。私は現在九歳、変わらずミス・エルグレイの授業と、剣の稽古の日々である。もっとも、どちらもその内容は随分と変わってきた。ミス・エルグレイの授業では座学の他にピアノや礼儀作法といった令嬢として必要な知識、技能を学び始めているし、剣の稽古もより実戦的な打ち合いが多くなった。剣はともかくピアノの方は惨憺たるもので、引き続きミス・エルグレイには申し訳ない毎日である。
結局、あのワイバーンの襲撃事件の犯人は分からなかったそうだ。ただ、サート卿の牧場で馬の世話をする使用人が一人、牧場を囲む生垣の中に幾つか認識阻害の杭を打ち込んでいたとして投獄されたと聞いた。……彼は『角馬をほんの数頭盗みたいから協力してくれ』と金を積まれて頼まれたのだそうだが、その相手の顔も声も思い出せないと証言したという。恐らく認識阻害のアイテムをそこでも使っていたのだろうとは、この話をこっそり教えてくれたクレイトンの言である。
(さすがに、……誰も彼もがハッピーっていうわけにはいかないなあ)
投獄された彼のことは残念だが、自分がやったことが何を招こうとしていたのかを知って悔いてくれればいいと思う。その上で彼を許すかどうか、決めるのは私ではなくサート卿やその周囲の人々、そして辺境伯である父だ。
溜息を一つ吐いて視線を転じると、丁度目が合った深緑色が、ゆるりと笑った。
クレイトン・メルキュリーはつい数日前十三歳になり、随分と背が伸びた。体力も付いたようで、もう剣の稽古の度に庭の隅に転がるということも無い。相変わらず、と言うか輪をかけて顔が良いが、変人であるのも変わっていない。誕生日に私が刺繍のハンカチを贈った際も(少なくとも表面上)喜んではくれたが、不器用故に何枚か血の海に沈んだハンカチがあると知って「どうしてそっちはくださらないんですか」と文句を言うものだから少々……いや大分怖かった。何でそんなものがほしいんだ、それを元手に私のことを呪う気でいるのか。
まあ、今のところはこいつとも、上手くやれているのではないだろうか。少なくとも、今誰かに唆されてもギリギリ裏切らないでいてくれるのではないか、と……思う、思いたい。
「元気ですねえ、お二人とも。……何だってまた、辺境伯の名代なんぞ」
クレイトンのやや後方、こちらはあまり様子の変わらない護衛のケニー・カレット二十五歳が、珍しく気乗りのしない声で言う。
まあ、ケニーの言うことも分からないでもない。そもそも九歳の、しかも娘である。普通は辺境伯の名代などという大それた役目は負わないだろう。しかし――今日私達が領内の砦を訪れたのは、その辺境伯である父、ダレン・バーレイストローからの指示なのである。
「お父様も皆様も、お忙しいですからね」
「僕の父も帰ってきていませんしねえ」
魔物被害の増えるこの季節、一週間程前に魔物に大きな橋を落とされた後始末で父はてんてこ舞いに忙殺されている。そこで白羽の矢が立ったのが、私だった。何でもこの時期大切な役目があるそうで、それを代わりに果たすよう申し付けられたのである。そして私は専属護衛のケニーと、目の下に大きな隈をこしらえたユーゴ・メルキュリー子爵から「くれぐれも、くれぐれもマチルダ様のご命令には従うのだぞ」と念を押されたクレイトンを伴って、ルーチャ砦へとやって来たのだった。
堀に架かった橋を渡り門を入った先、ルーチャ砦は二つのエリアから成っている。一つは今私達が馬車で進んでいる、兵舎や厩舎といった主要な施設が建つ広場。そこから更に奥の方へ目を転じると、小さな人工の丘の上に黒い石で築かれた塔。どうやら前世で言うところの、モット・アンド・ベイリーという形式の砦のようだ。
馬車が止まり、扉がノックされた。応じると扉が開けられ、馬を下りたケニーが踏み台を用意する。すい、と横から出て来た手は同じく馬を下りたクレイトンのもので、作法通りそこに軽く手を乗せ私も馬車を降りた。黒い革手袋をした手が一瞬だけ震えて、笑いを堪えているのだと分かった……自力で飛び降りようとして怒られたのは、もう結構前のことでしょうが。
私が降り立ったのは、広場の中程にある開けた場所だった。訓練場だろうか、均した土が敷かれて、隅の方には打ち込み用と思しき丸太が数本立っている。もう夕方だからだろうか、今は誰も使っていないようだ。
その中央に、既に数人の兵士達が整列していた。辺境伯軍は人よりも魔物を相手にすることの方が圧倒的に多く、彼らの装備もそれに適したものとなっている。頭や首を守る兜と、胴体を守る胸甲、武器や手綱を操る手を守る手甲。鎧と呼べるのはそのくらいで、それらの下に黒い革製のコートを着込んでいる。動きの素早い魔物に対して臨機応変に動ける装備、なのだそうだ。
兵士達の前に立っているのは、女性だった。二十代半ばくらいの彼女は金茶色の髪をきっちりと編み込み、長身に纏う鎧やコートはよく使い込まれている様子ながら、他の兵士達より幾らか上等なように見える。
「ケニー先生、当たりでしたね」
「ハズレっすよ」
背後から小声の遣り取りが聞こえて、ちらり、斜め後ろをついて来るケニーを見る。こちらも長身だが、後ろで一つに括った硬そうな濃い茶色の髪と、同じ色の瞳。
「……あまり、似ていませんね?」
「俺はほら、母に似てか弱いんで」
小声で問えば、やはり小声でおちゃらけた答えが返ってきた。
姿勢良く立っていた女性は、私達が止まると素早く敬礼をする。右の拳を左胸に当てる、この王国の敬礼。幾度か目にする機会はあったが、彼女の敬礼は今までで一番見事かもしれない。
女性の敬礼を合図に、後ろの兵士達も一斉に敬礼した。さすが領内でも精鋭と言われているだけあって、一糸乱れぬ動きである。……私から見て一番左のやや年嵩の兵士が、他の兵士達を気にしている様子なのは少し気に掛かるが。
「どうぞ、楽になさってください」
声を掛けると、これまた一斉に敬礼を解いて気をつけの姿勢に。これはこれで居た堪れない、まだまだ私の心は庶民の感覚を忘れていないのだ。
小心者の内心をすっかり板についたポーカーフェイスで誤魔化す私をよそに、女性がキリッとした顔で声を発する。
「ようこそルーチャ砦へお越しくださいました、マチルダ様。ルーチャ砦、アイネ突撃隊隊長のレム・カレットと申します」
「ごきげんよう。お出迎えいただき、ありがとうございます」
挨拶を返した私を見る女性――レム隊長は、榛色の目を細めた。
「辺境伯に、よく似ておられる」
「そうでしょうか? まだまだ、及ばぬところばかりですが」
似ているのなんて精々が髪と瞳の色程度ではないだろうか、とは思いつつ答えると、レム隊長の唇がゆるりと弧を描く。
「ご謙遜を。マチルダ様は既に、相当な剣の腕だと聞き及んでおります。何よりも『飛竜殺し』の名を知らぬ者など、辺境伯軍にはおりますまい」
「ああ、いえ、ええと…………そう、ですか」
恐らく褒め言葉であろうそれに、引き攣りそうな頬を叱咤した。
ワイバーンの襲撃事件は、当然ながら辺境伯軍の兵士達も知るところとなった。そうなると、今度は彼らが酒場などでその話をする。八歳の子供がワイバーンを仕留めたという話は瞬く間に広まって、今や私は『飛竜殺し』などという物騒極まりない二つ名で親しまれているのである。昨年初めて参加した領都の収穫祭では、領民達から大変歓迎されたが――まさか、こんなに嬉しくない二つ名があろうとは。一応こちらはうら若き令嬢だというのに。
私が複雑な思いでいる間に、レム隊長は言葉を継ぐ。
「ですので……僭越ながら、私とお手合わせをお願いいたしたく」
「…………、はい?」
ぱーどぅん?
こんにちは。第二章が始まりました。またしばらくの間、お付き合い願います。




