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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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9/10

9話

 夜明け前の三番埠頭では、ボラードに巻かれた舫が波に引かれるたびに軋み、船体が防舷材を押す低い摩擦音が続いていた。


 荷役鐘が一打ちする。それは水の上で痩せた音になり、埠頭の端まで遅れて届いた。


 桟橋際には魚油の麻袋が肩の高さまで積まれ、列の奥は埠頭灯の光が切れていた。


 ヨハンは鐘の前に船腹の陰へ入り、そのまま荷室で息を殺していた。

 船底に近い荷室は低く、首を起こすと梁に触れた。

 麻袋の間に背を押しつけ、板越しに伝わる水の揺れを足裏で受けながら、綱の擦れる音と人夫の声の切れ目だけを聞いていた。


 シグマは埠頭灯の死角、杭と荷の列に挟まれた狭い隙間で、長剣の柄に右手を添えていた。

 船腹までの道は一本しかない。退けば荷、進めば桟橋、水際へ落ちるしかない。

 潮と魚油の臭いが舌の根に貼りついた。


 人夫が一人、帳面を開いたまま桟橋を横切る。顔は正面を向いたまま、シグマの視線だけが帳面の男を追った。

 舫の軋みのあいだに、軍靴の音が混じった。釘底が、同じ間で板を打ってくる。

 船底で、ヨハンはその数を聞いた。



 シグマが気配を察した時には、すでに退路が切られていた。


 左は水。右は荷の列。前方の杭の向こうに、人影が三つ。背後からも、足音が近づいていた。

 荷の列の角から、男が一人、姿を現した。


 三十そこそこ。六尺近い。しかし目が先に行くのは耳だった。

 両耳が潰れて肥厚し、形そのものが変わっている。

 首の付け根が異様に盛り上がり、前腕が太い。

 革鎧の上に胸鎧を重ねているが、それより先に骨格と筋の配置が目に入る——捕まえて離さない型の身体だ。


 部下が五人、半円を描いてシグマを囲んだ。

 革鎧に長剣。全員が同じ歩幅で止まった。男だけが後方に立つ。

 男はシグマを一瞥し、口を開いた。


「我が名はゲルハルト。聖女殿を迎えに参った」


 間を置かず、五人が半歩詰めた。

 シグマは重心を低く落とした。

 顔はそのまま、視線だけが五人の立ち位置、間隔、利き手を順に見定めていく。

 前の二人が動けば、右の荷の列との隙間が一瞬開く。

 右手が、長剣の柄の上で静かに開いた。

 ゲルハルトの視線が、埠頭の出口から船腹、それからシグマへと順に落ちた。


「やはりな」


 足を止め、シグマを頭から爪先まで眺め回す。

 一つ頷いて、左手で部下に合図した。

 五人が半歩詰める。


「この包囲網では、密輸船に乗り込むしか選択肢はない」

「……」

「聖女よ。今なら痛めつけはしない。我々と一緒に来い。さあ、テオドールはどこだ」

「どなたですか、そのテオドールとは」


 ゲルハルトの動きが、一拍止まった。

 鼻から短く息を吐く。

 慇懃さが、もろい石膏のように剥がれ落ちた。


「あれは、貴様のような売女であろうと置いていくような人間ではない。それこそが、あれの唯一の欠点だ」

「……なぜ、ヨハン様をそのような名前で」

「馬鹿め」


 ゲルハルトはシグマを一度だけ見た。

 明確な嘲笑だった。


「お前がヨハンと呼ぶ男は、テオドール・アウエルシュタット。『嵐刃』テオドールだ」


 語りながら、ゲルハルトの視線がシグマの顔から外れた。どこか遠くを見ている。


「三叉の鷲旗の下で、あの男が動けば戦局が変わった」


 視線がシグマに戻った。


「——それが、お前ごときが雌犬のようにつき従っている男の正体だ」


 前の二人が、じりじりと間合いを詰めてくる。

 ゲルハルトは動かず、続けた。


「あの男はお前など目の端にも入れない」


 シグマは前の二人の足の運びを測り続けた。

 ゲルハルトの語りは耳に入っていた。

 侮辱は混じっている。だが、その中に事実が紛れていることも分かった。


「けれど、私に手を延べたあの方はヨハンと名乗りましたよ」


 声の質は変わらなかった。

 ゲルハルトの顎が、一拍だけ引かれた。

 シグマはその一拍を見た。

 動揺ではない。別の何かだ。痛いところを突かれた時の、あの種の静止。

 口角が、静かに上がった。


「それが何か不都合なのですか」


 ゲルハルトの奥歯が鳴った。

 口元から表情が消え、視線がシグマから外れ、それから戻った。


「……お前のような女に、理解できるはずもないか」


 自分に言い聞かせるような間があった。

 ゲルハルトの顎が前の二人へ動いた。

 低く、部下に向けて言った。


「死なない程度にやれ。生きたまま連れてこいというのが上からのお達しだ」


 それを合図に、右の一人が踏み込んだ。

 シグマは右へ流れた。

 伸びきった腕の内側へ潜り込み、膝を男の太腿の裏へ叩き込む。

 膝裏の腱が潰れ、男の重心が前へ崩れた。

 その背を踏み台に、左の男との間を抜けた。

 荷の列の角を背にして立つ。包囲の前面が崩れた。板張りに革靴が滑る音がした。

 ゲルハルトの顎が引かれた。


「……思ったより動くな」


 残りの部下へ顎で合図する。

 四人目と五人目が後方へ下がり、水際と荷の列の端を塞いだ。囲いを絞る判断だった。

 二人目が肉薄した。

 シグマは踏み込みの外へ半歩退き、伸びきった腕の根元へ掌底を叩き込む。

 肩口の関節が鳴り、男が膝をついた。

 その隙に、三人目の長剣が側面から薙いだ。

 刃が耳元を抜け、髪が一束、肩へ落ちた。半歩の読みが甘かった。


 ゲルハルトが動いた。右足から重心を低く沈めて入ってくる。

 踏み込みの深さが前の三人と違った。剣を抜いていない。両手が空いている。

 シグマは踏み込みが伸びきる前に合わせた。脇腹へ体重ごと肘を打ち込む。

 肋骨の上で肘が滑った。

 筋肉の厚みが違う。ゲルハルトの上体が僅かに傾いだが、踵は石畳を踏んだまま動かなかった。

 すでに両腕がシグマの上体へ向かっている。腕が一本でも入れば、あとは地面へ引き摺り込まれる。

 シグマは後ろへ跳んだ。背中が荷箱の角に当たった。


「……話が違うぞ」


 ゲルハルトが低く言った。今度は剣の柄へ手がかかっていた。


「聖女とは、祈ることに特化しているのではないのか」


 シグマは答えなかった。

 背中の痛みを呼吸の底へ押し込みながら、次の間合いを測っている。

 残り四人。ゲルハルト。五対一。荷箱の角を背にしていれば後ろは塞げる。

 ゲルハルトが部下に何かを言いかけて、口を閉じた。そのまま続けた。


「あの男がお前のために動いていると思うな。あの男が捨てられなかったのは、お前ではない。別の女の影だ」


 シグマの意識に残ったのは、その一節だった。別の女。影。


「あの方が何を捨てられないかは、私には判断できません」


 ゲルハルトの眉が、わずかに動いた。


「お前は何も知らない」

「ええ。だから、あなたに伺っているのです」


 荷役鐘が、二打ちした。

 シグマの視線が一瞬だけ、船の方へ動いた。

 ゲルハルトはその一瞬を見逃さなかった。


「あの義足では、お前を守れまい」


 シグマの足が止まった。

 一拍だけ、止まった。

 それが何かを、シグマはうまく言えなかった。

 怒りではない。もっと別の、腹の底へ石が落ちるような重さだった。


 甲板の縁に、人影が現れた。荷綱を掴み、身体ごと外へ乗り出した男の姿が、夜明けの薄闇に浮き上がった。

 ゲルハルトの視線がそちらへ動いた。

 剣の柄を握ったまま、足が一歩前へ出かけて止まった。口が開きかけ、歯が噛み合う音がした。


 シグマはその一拍を使った。


 四人目と五人目の間へ向かって走る。退路を塞いでいた二人が対応するより先に、シグマは低く沈んで間を抜けた。

 革靴が板を蹴る音が追ってくる。桟橋際へ出た。

 船腹が見えた。船はすでに動き出していた。岸壁と船腹の間に黒い水面が開き、その幅がじりじりと広がっていた。

 甲板の縁にヨハンが立っていた。腕を伸ばしている。


「跳べっ!!」


 シグマは一瞬だけヨハンを見た。

 それから水面を見た。幅を測る。跳べる。

 岸壁を蹴った。板が軋む音が後ろへ消えた。


 夜明け前の空気が耳元で鳴った。

 シグマの手がヨハンの腕を掴んだ。

 荷綱がきつく軋み、ヨハンの上体が縁から引き出される形になった。そのまま引き上げる。

 甲板に二人の足が着き、板が低く鳴った。

 右脚の継ぎ目に熱が走り、膝の裏まで伝わった。ヨハンは堪えて、荷綱から手を離した。


 岸壁が遠ざかっていく。

 ゲルハルトが埠頭の端に立っていた。篝火の明かりがその顔を下から照らしていた。

 部下への指示を出さず、ただ船を見ていた。

 視線が甲板のヨハンで止まった。顎が上がり、口が一度だけ開いて閉じた。


 ヨハンはその視線を受け止めた。ゲルハルトだと遠目にも分かった。暗がりの中でも、立ち方で分かった。それだけ見て、岸壁から目を離した。

 甲板の冷たい板に手をつき、激しい呼吸を繰り返す。

 右脚の継ぎ目に熱が溜まり、息が喉の手前で詰まる。荷綱の繊維が手のひらに残っていた。

 シグマが傍らに立っていた。

 呼吸は荒れ、膝は地を踏んでいる。耳元のあたりで、断ち切られた髪の端が風に揺れた。

 しばらくして、ヨハンは口を開いた。


「……お前、聞いたのか。俺のこと」


 声は低く、かすれていた。

 シグマは答えなかった。

 ヨハンの横顔を見る。

 窓の外を見ていた時と輪郭は同じだった。

 だが目だけが違った。岸壁の方を向いていながら、何も見ていない目だった。

 船が海面を掻く音が二人の沈黙を支配していた。

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